「ふぁ〜あ」
小さな口を目いっぱい開いてアクビをした。
それにしても、アクビは今日これで何回目だろう。
朝起きてからヒマにまかせてアクビの回数を数えて見たが、あまりに多くてもう飽きてしまった。
あー!退屈退屈退屈!」
何もやる事が無い。今日も昨日も一昨日も、同じ。
こんなに元気なのに、どこへも行けない。

 「退屈だー!」
ベッドの上に座って、足をじたばたさせる。
テレビはいつも同じだし、漫画だって全部暗記してしまうほど読んだ。
誰も遊びに来てくれないし、電話しようにもテレホンカードはあっという間に使いきってしまった。
「ヒマ〜」
ベッドを飛び降りて窓の開ける。さわやかな風が部屋に入ってくる。
窓の外を見ても毎日同じ風景。

 ドアを開けて、ピンクの服を着た看護婦が入って来た。
「やば・・・また怒られちゃう」
ベッドに飛び乗り、フトンの中に隠れる。
寝たふり。
「見え見えですよ」
看護婦はケラケラ笑いながらそう言った。
そしてベッドに近づく。
勢い良くフトンをめくる。

 「安倍さん、また騒いでましたね。あちこちから苦情来てるんですから」
看護婦は可愛い顔なのに鬼みたいに怒る。
「えへへへ・・・」
とりあえず笑って誤魔化してみた。
「笑って誤魔化さないで」
看護婦の顔は鬼を通り越して大魔神になってきた。
「だって・・退屈なんだもん」

 「あのね・・気持ちは分かるけど、ここは病院なの」
看護婦の顔は少し優しくなった。
「もうすぐ退院なんだから、静かにしてて」
看護婦はそう言うとため息をついた。
「はいはーい」
また今日も同じ説教をされてしまった。

 看護婦はふとんを安倍にかけて、部屋を出て行った。
もうすぐ退院、もう何日もそう聞かされてる。
もうすぐっていつ?
このまま一生ここに居るわけじゃないでしょうね?
「退屈・・・・・・」
ベッドに寝たまま天井を見つめた。
天井は白かった。

 「あー、髪の毛切りたいな」
自分の髪をいじる。枝毛だらけでぼさぼさ。
もう、肩を通り越して背中の真ん中あたりまで伸びてる。
「自分で切ろうかな?」
と、思ったけど止めた。ハサミも無いし。
「脱走したいな・・・」
早くここから逃げたい。

 ベッドを飛び降りる。
この部屋に一つしかない鏡を見る。
自分の顔が写ってる。顔を近づけてよく見てみる。
顔についてた傷やアザはすっかり消えた。
「ん〜、可愛い」
ややうつむいて頭の上を見てみる。
手で髪を掻き分けて、大きな傷跡を見る。
「ま、大分綺麗になったかな」

 それにしても何でこんな大きな傷がついたのだろう。
気がついたら病院のベッドで寝てた。
自分を見た看護婦がこの世の一大事みたいな大げさな顔をして医者を呼んでた。
周りに人だかりが出来て、みんな凄く興奮してた。
親も飛んできて、涙流しながら感激してたっけ。
何があったのか、全然覚えてない。

 覚えているのは、「娘。」の番組収録中に急に気分が悪くなった事。
そこから何も覚えてない。
親に何があったのか聞いても悲しい顔をして教えてくれない。
ただ、「娘。」が解散してしまった事だけは教えてくれた。
テレビを見てて後藤が一人で歌歌ってるの見て、本当のことなんだと悲しくなった。
取り残された気分だった。

 中澤に連絡を取ってみようと思って電話してみたが、
「現在使われておりません」
と言われていまった。
矢口にも連絡してみた。携帯は繋がらなかった。
矢口の家に電話したら、安倍と言う名前を聞いて突然切られてしまった。
みんな何してるんだろう?

 またベッドに座り、色々考えてみる。
「娘。」が知らないウチに解散したのはちょっとショックだった。
それよりも、誰も連絡してくれないのはもっとショックだった。
当然見舞いにも来ない・・・。
安倍は一人ぼっちだった。
寂しかった。

 「娘。」に居たときから良く一人ぼっちになった。
なぜだか自分には分からなかった。分かればとっくに直してる。
その理由も誰も教えてくれなかった。教えてくれれば直したのに。
一人ぼっち、孤独な時は良くあった。
でも、孤独は嫌い・・・。
一人は嫌。

 「あー!退屈退屈!」
また足をバタバタさせた。
騒いでたのは退屈なだけじゃない。
じっとしてると悲しくなってしまうから。
余計な事ばかり考えてしまうから。
イヤな思い出ばかりがよみがえってくるから。
安倍は騒ぐことで自分の呪縛から逃げようとしていた。

 「安倍さん!」
また看護婦がやって来た。安倍はふとんを頭からかぶって隠れた。
「騒いじゃダメって言ったでしょう・・検診の時間ですよ」
毎日同じ検診。良くなったのかまだ悪いのかも教えてくれない。
早くここから出たい。
ここから出て・・・どうしよう?
何をすればイイんだろう?

 事務的な検診が終わってまた一人ぼっち。
テレビをつけてみる。華やかな世界が映る。
自分もあそこに居たはずだった。
「ふぅ・・・」
ため息をついた。
テレビの中の世界に居たかった。たとえ、一人ぼっちでも、今よりはマシ。
それは、自分の存在がそこにあったから。

 もう一度、あの世界に戻りたい。
なんとかして・・・。
自分の存在を証明出来るのは、あそこだけ。

逃げてしまおう。もう一度やりなおそう。

 逃亡戦略を練った。
と言っても、走ってタクシーに逃げ込むだけ。
家族に見つかれば病院に逆戻り必至。
家族のいない時間にウチに帰って荷物まとめよう。
カギのある場所は知っている。
その後は・・・。

===================================
 
 安倍は東京に居た。大きなスーツケース一つ持って。
とりあえず、住む所を捜さなくてはならない。
不動産屋をめぐる。しかし、家出少女に簡単に貸してくれる所なんて無かった。
歩きつかれて、公園のベンチに座った。
思いきって出てきたのはいいけど、今後どうするかまったく考えてなかった。
でも、帰る事だけは絶対に嫌だった。

 「あれ・・・安倍さん?」
ベンチに座って考え込む安倍を見て声を掛けてきた人がいた。
安倍はボーっと前を見ていて気がつかなかった。
足音がだんだんと近づき、すぐ横で止まった。
「安倍さん?ですよね?」
安倍はやっと気がついて声のする方を見た。

 「あれ・・ののちゃん」
安倍は特に驚きもせずに声の主に答えた。
「何やってるんですか?こんな所で」
辻は学校の制服を来ていた。下校途中だったようだ。
「何やってるって?何やってるんだろうね」
安倍は自分でも一体何やってるんだろう、と思った。
やりたい事は決まっているけど、今は何をやっているのか分からない。

 「そんな大きなスーツケース・・・家出とかじゃないですよね」
辻はスーツケースを指差しながら言った。
安倍は苦笑いしながら答えた。
「ぴんぽーん」
辻はあっけにとられた顔をした。
「え〜?どうしたんですか?」

 安倍は事の顛末を辻に話した。
「はぁ・・・そうなんですか」
「大変ですね」
辻はそういって心配してくれた。安倍は思った。
(相変わらずボケた子だなぁ。気が付け!)
安倍は辻の顔を見つめていた。
「私の顔になんかついてます?」

 「いや、そうじゃないんだけどね・・・」
安倍の気持ちは辻に通じてなかった。
ここはハッキリ言った方がいいのかな?と安倍は思った。
なにせ相手は辻だ。
「へへへ・・・・」
辻は安倍の気持ちを知る由も無く、意味不明の笑いをした。

 安倍は思った。
(泊めてくれ、なんてやっぱりずうずうしいかな)
安倍はまだ辻を見つめていた。
「あ!」
辻は突然何かを思いついたようだった。
やっと気がついてくれた?安倍は安心した。

 「そういえば、さっきおいしいアロエヨーグルト買ったんですよ。食べます?」
安倍は頭をかかえてしまった。
「いいよ・・・・ありがと」
このままこうしていても仕方が無い。
安倍は立ちあがった。

 「安倍さん、私の家で良かったら泊まっていきますか?」
安倍は辻の言葉で動きが止まった。
「ほ、ほんと?」
なんとなくワザとらしい笑顔で安倍は答えた。
「あ、嫌ならイイんですけど・・・」
おいおい、と安倍は思った。
「嫌なんかじゃないよぉ。お願い!泊めて」
安倍は辻に両手を合わせて頼んだ。

 さすがに路上で寝るのはいくらなんでも危険。
安倍は辻の家に泊めてもらえる事になった。
「あ〜、でも、私の部屋ベッド一つしかないんですけど」
辻は心配そうにそう言った。
「床でいいからさ・・・」
二人は駅に向かって歩きはじめた。

 駅について、階段の前で安倍は突然立ち止まった。
辻は何かと思い、安倍の方を見た。
安倍は階段を見上げながら、青い顔をしていた。
「どうしたんですか?」
辻の言葉も安倍には聞こえなかった。
何がなんだか分からないが、安倍は何かの恐怖に襲われていた。

 「階段は・・やめよう」
安倍は小さな声で辻に言った。
「階段通らなきゃ電車に乗れませんよぉ」
辻は困った顔をして答えた。
安倍はどうしても階段の所から動けなくなっていた。
足が震えてきた。
辻が安倍の手をひっぱるが、安倍は硬直して動かない。

 「タクシーで行こう!タクシー。ね」
安倍はそう言った。動揺しているようだった。
「お金はあるからさ」
安倍の勢いにおされて辻は手を離した。
「分かりました・・そうしましょう」
安倍と辻は駅の階段を背にして歩き始めた。

 なんであの階段の前で止まってしまったんだろう・・・
安倍はそんな事を考えながら歩いていた。
階段は病院にもあったし他の駅の階段は別になんともなかった。
あの階段に近づきたくなかった。
何か一瞬、見えたような気がした。
過去の記憶なんだろうか?

 「ののちゃん・・解散してから、私の噂聞いた事ある?」
安倍は過去に何があったのか聞いてみたかった。
「聞いた事ないですよ」
そうなんだ。やっぱり何も無かったんだろう。
「でも・・亜依ちゃんが、安倍さんと再デビューするって電話してきた事が」
「再デビュー?」
やっぱり何かあったんだ。知りたい。

 タクシーをつかまえて、乗りこんだ。
「そ、それで?」
「いや・・・それっきり連絡してません。すみません」
「でも、安倍さんはここにいるし、亜依ちゃんもデビューしてないし」
「何かあったんですかね?」
辻は本当に何も知らないようだった。
「家に帰ったら亜依ちゃんに電話しましょう」
辻の言葉に安倍は頷いて答えた。

 二人は辻の家に着いて、家に入った。
安倍は辻のご両親に挨拶し、辻の部屋に入っていった。
「さて・・・亜依ちゃんに電話してみます」
辻はそう言って電話しはじめた。
安倍はスーツケースの中身を出しながら、辻の様子を見ていた。

 「・・・・あ、亜依ちゃん?」
どうやら電話に出たようだった。安倍は手を止め、辻に注目した。
「おひさしぶり〜元気?」
世間話から始まった。
安倍は自分の話題が出てくるのが怖かった。
でも、何があったのか知りたかった。

 「・・・・・・あのさ、ののちゃん」
かれこれ1時間近く世間話が続いていた。
「あ!そうだった・・・」
辻は安倍の声にやっと気がついたようだった。
「ちょっと変わるね」
そういって辻は受話器を安倍に渡した。
安倍は、手に汗を握りながら受話器を耳につけた。

 「こんにちは」
ごく普通の挨拶をした。
「・・・・・・安倍さん?」
電話の向こうの加護はかなり驚いた様子だった。
「おひさしぶり」
安倍の声に加護は無言だった。
「加護ちゃん、どうしたの?」
安倍は加護が何もしゃべらないのが疑問だった。

 「あ・・・おひさしぶりです」
加護はやっと話し始めた。声は心なしか緊張しているようだった。
しばらく沈黙。
「あのさ、私ね」
安倍は自分の事を話し始めた。
病院で目がさめた事。何も覚えていない事。駅の階段で気分が悪くなった事。
加護は黙っていた。

 「で・・・私に何があったか知りたいの」
安倍は単刀直入に聞いてみた。
加護はしばらく黙っていた。
「わ、私もあんまり詳しくは知らないんです」
加護は、ゆっくりと加護の知っている事を話し始めた。
三人でデビューしようとした事。安倍が階段から落ちた事。
矢口の事も。

 安倍は加護の言葉を聞いてショックを隠せなかった。
手が震えてきた。
「そうなんだ・・・」
それしか言葉が出てこなかった。
安倍は黙って辻に受話器を渡した。
辻は受話器を受け取って、加護と話し始めた。
安倍は・・・うつむいていた。

 安倍がショックだったのはただ一つだった。
ずっと友達だと信じていたのに・・・。
矢口の行動が信じられなかった。信じたくなかった。
ただ、加護はその理由までは知らなかった。
加護が知っていたのは事実だけだった。
安倍は・・・理由を知りたくなかった。

 辻は電話を切った。
「安倍さん・・・何があったんですか?」
辻はまだ何も知らなかった。
「いや、いいの。気にしないで」
安倍は辻に答えた。
「そうですか・・」
辻は元気の無い安倍にそれ以上聞こうとはしなかった。

 夜になり、二人はふとんに入った。
辻の両親が安倍のためにふとんを用意してくれた。
電気を消し、部屋は真っ暗になった。
「おやすみなさい」
辻はそう言って眠りに入った。
安倍は眠れなかった。
矢口の事を思い出していた。

 安倍は真っ暗な天井を見つめていた。
矢口は友達だった。
安倍には「娘。」の中で中澤と矢口は信頼していた。
いや、友達だと思っていた。
「私が友達だと思っていただけなのかな・・・」
安倍は寂しくなった。

 安倍は孤独を感じた。
「一人ぼっちは嫌・・・・」
矢口が自分を裏切ったなんて信じたくなかった。
嘘でもいいから友達でいて欲しかった。
矢口は今どこに居るのだろう?
矢口に会いたい。

 辻は何かの物音で目がさめた。
真っ暗で何も見えない部屋。辻は電気を付けた。
安倍の寝ているはずのふとんはもぬけの殻だった。
辻は部屋の隅を見た。
安倍は、部屋の隅で小さく固まって座っていた。
安倍は、泣いていた。

 「安倍さん・・・・」
辻はベッドから出て、安倍のそばに寄った。
安倍は膝を両手で抱え、顔を膝にうずくめる様にして泣いていた。
辻は安倍の肩に手をかけた。
「どうしたんですか・・・」
安倍は囁いた。
「一人ぼっちは嫌・・・・」

辻は安倍を両手で抱いた。
「一人ぼっちじゃないですよ」
安倍は何も言わずに子供の様に泣いていた。
「一人ぼっちだと思ってるのは自分だけです」
安倍はやっと顔を上げた。
「でも・・・みんな離れていっちゃった」

 「離れていったんじゃないですよ。みんな・・・それぞれ事情があるから」
辻は安倍をなだめるようにして言った。
安倍は辻の顔を見ていた。
「なっちは・・・嫌われ者なのかな」
安倍は寂しそうに言った。
安倍はまるで親に泣きつく子供のようだった。

 辻は返答に困った。
実際、安倍は好かれているワケでは無かった。
しかし、メンバー全員が嫌っているワケでも無かった。
辻はしばらく黙って考えを巡らせた。
安倍は、何かにすがるような目つきで辻を見ていた。

 「安倍さんの方から心を開いていけば・・・みんな戻ってきます」
辻の言葉に安倍は驚いた様子だった。
安倍は少しうつむき、また顔を上げた。
「そうだよね・・・」
安倍はやっと安堵の表情になった。辻はほっとした。
「なっちは・・・嫌な娘だったよね」
安倍の言葉に辻はぎょっとした。

 言葉に詰まる辻を見つめながら安倍は続けた。
「隠さなくていいよ・・・自分でも分かってきた」
「ののちゃん・・・ありがとう」
安倍はそう言うと突然立ちあがった。
「さ、寝よ」
安倍はふとんに入って、掛け布団の中に顔を隠した。
辻はあっけにとられたが、何も言わずベッドに入った。
電気を消した。
「安倍さん・・・一人ぼっちじゃないですよ」
安倍のすすり泣く声が聞こえた。

 朝が来て、明るい日差しがさしこんで来た。
辻は目覚まし時計のけたたましい音で目がさめた。
部屋を見回すと、ふとんが綺麗にたたんでおいてあった。
安倍はいなかった。
「安倍さん?」
辻は驚いてベッドから飛び降りた。

 ドアが開いた。
「あ、おはよう」
安倍が何も無かったかのように入って来た。
辻はほっとした。
「居なくなったと思ってびっくりしましたよぉ」
「いや・・トイレトイレ。あは」
安倍は頭をかきながらテレ笑いをした。
目が腫れていた。

 「あのさ・・ののちゃん、お願いがあるんだけどさ」
安倍は着替えようとする辻に話しかけた。
辻は着替えをしつつ、安倍の話しを聞いた。
「今日、お休みできないかな?」
辻は驚いた。が、理由を問いただしてみた。
「あのさ・・・やぐっつぁんに電話して欲しいの」

 「でね、呼び出して欲しい・・」
「なっち、やぐっつぁんに会いたい」
「でも、不安だからののちゃんにも着いてきて欲しいの」
辻は少し困ったが、無理な願いでもないので了承した。
「ごめんね」
安倍は両手を合わせて辻に謝った。
辻は母親に学校を休む旨を伝えに部屋を出ていった。

 部屋に残った安倍は一人覚悟を決めていた。
どんな事になっても後悔しない。
どんな話があっても驚かない。
すべて・・・現実を受け入れよう。
現実から逃げないようにしよう。
矢口に聞きたい事は山ほどあった。

 辻が部屋に戻ってきた。
「お休みしました。電話はいつします?」
安倍はしばらく考えて答えた。
「やぐっつぁんが出かけたりすると会えなくなるから・・・今しよう」
辻は小さく頷いて、電話に手をかけた。
「あ、やぐっつぁんの番号はね」
安倍は自分の手帳に控えてあった矢口の家の電話番号を辻に見せた。
辻はひとつひとつ確認しながらゆっくりと電話をかけた。

 安倍は緊張の面持ちで電話をする辻を見ていた。
何度となく「やっぱりやめよう」と言葉が出そうになるのを必死に堪えた。
「もしもし・・・」
電話に出たようだ。
安倍は緊張がピークに達した。
「矢口さん?辻ですけど」

 「あのですね・・・ちょっとだけ時間作れますか?」
辻は落ち着いて話をすすめていった。
安倍は急にバタバタと辻にサインを送った。
自分を指差し、口に人差し指をつけた。
「なっちの事はしゃべらないで」
小声で辻に言った。矢口に存在を気づかれたら出てきてくれないかもしれない。
「え?なんですか?」
辻は大きな声で安倍に聞いた。当然電話口の矢口にも聞こえただろう。
安倍は焦った。

 安倍は辻に手から受話器を取り上げて、手で会話が聞こえないようにおさえた。
そして小さな声で辻に自分のことは内緒にしておくように言った。
「あ・・・すみません」
安倍は辻の言葉を聞いて受話器を返した。もう一度「しーっ」というポーズをして。
辻は電話を続けた。
「え?あはは・・・えーと、お母さんです」
やっぱり聞かれた。普通お母さんに敬語使うだろうか?
安倍は矢口が気づかないようにと祈った。

 「じゃ・・一時に」
辻はそう言って電話を切った。
矢口は会うことを約束してくれた。
「会ってくれるそうです」
辻の言葉に安倍はますます緊張を高めた。
「うん・・・ありがと、ののちゃん」
安倍はこれでいいんだ、と自分に言い聞かせた。

 安倍と辻は早めに家を出て、待ち合わせ場所の見えるレストランで昼食をとった。
安倍は待ち合わせ場所を見ながらコーヒーを飲んでいた。
食欲が無かった。緊張で何か口にすると戻しそうだった。
本当に矢口は来てくれるのだろうか?
安倍の顔を見てどんな反応をするのだろうか?
逃げたりしないだろうか。
安倍は不安でたまらなかった。

 時間になった。安倍と辻はレストランを出て待ち合わせ場所に行った。
安倍は帽子を深くかぶり、すぐに安倍と分からないようにしていた。
「あ・・・・」
辻が何かを見つけたようだ。
安倍は手に汗を握った。周りを見ることが出来ない。
安倍は下を向いて押し黙っていた。

 下を向いている安倍には声だけが聞こえていた。
色々な騒音と通りすぎる人達のざわめき。
そんな中でハッキリと一人の声だけが聞こえた。
「おひさしぶり」
以前の明るい声では無く、沈んだ暗い声だったが、誰かはハッキリと分かった。
「こんにちは」
辻の声が聞こえた。

 安倍はまだ前を向けずに下を向いていた。
「元気だった?」
「はい・・・おかげさまで」
何てこと無い会話が続く。
安倍は逃げ出したくなった。

 会話が止まった。
下を向く安倍の視界に小さな靴が見えた。
「安倍さん・・・・」
辻の声で安倍はようやく顔を上げた。
目の前に辻がたっていた。
その肩越しには矢口が居た。

 安倍の目は辻ではなく矢口に向けられていた。
矢口は安倍の顔を見るなり顔が強張った。
そして下唇を噛み、下を向いた。
沈黙が続く。
辻は、二人の間からよけた。
安倍は意を決して一歩、矢口に近づいた。
矢口は下を向いたままだった。

 「おひさしぶり」
安倍は矢口に声をかけた。矢口は無言だった。
「会いたかったよ」
安倍はゆっくりと話し始めた。
「収録の時なっちが倒れて以来だね」
安倍はそう言った。矢口は顔をあげて驚いた顔をしていた。
「なっちね、気がついたら病院にいたんだ」
「娘。が解散したなんて全然知らなかったんだよ」
安倍の言葉を聞いて矢口はポロポロと涙を流し始めた。
「ごめん・・・ごめんね」

 「そうだよ!」
安倍は強い口調で言った。矢口はビクッと肩を震わせた。
「電話もしてくれないなんて・・寂しかったんだよ」
「毎日退屈だったんだから」
安倍の言葉に矢口はますます泣き出した。
「あの・・場所変えましょう」
辻が提案してきた。安倍は小さく頷いた。
「矢口さん・・・」
辻は矢口の手を引っ張った。
三人は近くの公園に向かって歩き出した。

 途中自販機で缶ジュースを買い、三人は公園についた。
噴水の見えるベンチに三人並んで座った。
安倍はまっさきにジュースのフタを開けて口をつけた。
矢口はジュースを両手で持ったまま黙っていた。
噴水の音だけが聞こえた。

 「本当に何にも覚えてないの・・?」
矢口が口を開いた。下を向いたまま。安倍は黙っていた。
またしばらく沈黙。
辻は重々しい雰囲気に耐えられず、立ちあがった。
「ちょっと・・散歩してきます」
矢口も安倍も何も答えなかった。
辻は一人で歩いて行った。

 「なんで娘。は解散したの?」
安倍は矢口の質問を無視して聞き返した。
「それは・・・・」
矢口は下を向きジュースの缶を持ったまま話し始めた。
「それは・・・分裂したから」
「それは知ってるよ。本当のところはどうなの?」
矢口の言葉を遮って安倍は言った。矢口は驚いて安倍の顔を見た。
「誰が何のために?」
安倍の鋭い質問に矢口は戸惑った。
「正直に教えて欲しいの。どうしても。お願い・・・」
安倍は矢口の目を見て言った。

 矢口は安倍の目から顔をそむけた。
矢口は黙ってしまった。
「なっちは・・・やぐっつぁんは友達だと信じてるよ」
「たとえ、何があっても・・・・」
「いや、嘘でもいいから・・・友達でいて欲しいの」
矢口の手に力が入った。ジュースの缶を潰しそうなほどに。
「なっちは、嫌な人だよね。ごめんね」
安倍はそう言うと立ちあがった。
そして矢口の前に立った。

 安倍は突然矢口の前で土下座した。
「本当・・・ごめんね」
矢口は驚いて缶ジュースを手から離した。缶は地面に落ちた。
顔を上げない安倍に矢口はベンチから離れ、安倍の両肩を掴んだ。
「お願い・・・やめて」
矢口の言葉を聞いて安倍は立ちあがった。
「座ろう・・・」
矢口はそういうと安倍の手を引いた。
安倍は言われる通り座った。
矢口も元の位置に座った。

 「分裂したのはね、あらかじめシナリオがあったの」
矢口はようやく話し始めた。
「首謀者は・・ごっちんと圭ちゃんと私」
「他のメンバーは何も知らなかった」
「もちろん裕ちゃんも・・・裕ちゃんはまんまとハメられた」
安倍はそこで口を挟んだ。
「一番の中心は誰なの?」
矢口は答えた。
「それは・・・ごっちん」
「というより・・・ごっちんの今の事務所」

 「事務所って・・・」
安倍の言葉に矢口は小さく頷いた。
「なっちが倒れた後に、ごっちんに事務所が接触したの」
「あのね・・・さやかが戻ってくるの」
安倍はそれを聞いて驚いた。
そしてしばらく考え、安倍は言った。
「プッチ?」
矢口は小さく頷いた。

 矢口は続けた。
「プッチモニを復活させる、と言う話でごっちんを説得したみたいね」
「で、ごっちんは圭ちゃんに話して・・・」
安倍は納得がいかなかった。
「よっすぃーは?なんでプッチ復活のために娘。解散させるの?」
矢口は安倍の質問に答えた。
「よっすぃーは・・事務所の決めた後釜だから」
「あの二人はオリジナルでやりたかったみたいね」
「一旦卒業したさやかとユニット組むには二人も卒業するか解散させるしかないでしょ」
「二人いっぺんに引き抜いたら事務所どうしで揉めるだろうし」
「なによりプッチモニで再デビューするには娘。が残ってたら具合が悪いでしょ」

 「ひ・・・ひどいよ!」
安倍は大きな声で言った。矢口は動ぜず、話を続けた。
「新事務所で、ま、名前は違うだろうけどプッチモニでデビューするためだったわけ」
「ごっちんと圭ちゃんにとって、プッチモニは娘。以上に大切な存在なんだろうね」
安倍はそこまで聞いてがっくりと肩を落した。
「あんまりだよ・・・・」
安倍は寂しそうに言った。

 「で・・・やぐっつぁんは?」
安倍は矢口を顔を見て聞いてみた。
矢口はしばらく黙った後話し始めた。
「矢口は・・・・ソロデビューって事で誘われたの」
「それだけで?ごっちんの味方したの?」
安倍は鋭く迫った。安倍は納得いく答えが欲しかった。

 矢口は黙ってしまった。
「どうしてなの?」
安倍はもう一度聞いてみた。
矢口は下を向き、声を震わせながら話し始めた。
「娘。で居る間はね・・・なっちという大きな壁があったの」
「なっちの存在が大きすぎて、矢口はいつもなっちの影になってた」
「娘。解散してソロデビューすれば、なっちという壁を超えなくても良かった」
「なっちは・・・重圧だった」
矢口はそこまで言って口を閉じた。

 安倍は矢口の言葉に声を失った。
二人ともうつむいていた。
沈黙が続く。
安倍は何を言っていいのか分からなかった。
覚悟はしていたつもりだった。
だが・・・やっぱり聞きたくない言葉だった。

 「で・・・・」
矢口が口を開いた。安倍はうつむいたまま聞いていた。
「ごっちんと圭ちゃん、矢口の三人で分裂を装った」
「他のメンバーは何も知らなかった・・裕ちゃんも」
「裕ちゃんはシナリオ通りに騙されてくれた・・・」
安倍はそこまで聞いて突然立ちあがった。

 「ひどいよ!」
安倍は叫んだ。
「自分勝手すぎるよ!他のみんなは被害者じゃない!」
矢口は安倍の叫びにも動じなかった。ただ黙ってきた。
「プッチが大切なのは分かるよ。でも、娘。を大切にしたい人だっている!」
安倍は肩で息をするほどに興奮していた。

 「やぐっつぁんも、なっちが壁だったって・・同じ立場だったじゃない!」
「それは違うの・・・立場は違ったの。なっちが気づかなかっただけ」
矢口は興奮する安倍とは対照的に静かに話した。
「なっちがいるかぎり矢口は日陰のままだったの」
矢口は下を向いたまま言った。
「だからなっちを突き落としたの!?」
安倍は興奮して言った。
言ったあと、言ってはいけない事を言ってしまったと思った。

 矢口は顔を上げて安倍を見た。
その目は涙でいっぱいだった。
「ごめん・・・ごめんね」
矢口はそれだけ言ってまた下を向いた。
安倍は矢口を見て黙っていた。
「矢口は・・・最低」
矢口はそう言った。

 安倍は矢口を責めてしまった事を後悔した。
何があっても・・・友達で居て欲しいと言ったのは自分だ。
それなのに・・・。
安倍は矢口の隣に座った。
座って考えた。

 「なっちは・・・一度死んだんだよね」
安倍は話し始めた。
「今のなっちには・・・過去が無いの」
「一からやりなおしってとこかな?」
矢口は泣いていた。
「今のなっちには何も無い・・・これで対等の立場になれるかな?」
安倍は矢口に聞いてみた。
矢口は黙っていた。

 「やぐっつぁん・・・わがままかもしれないけど、もう一度やりなおしたい」
「過去に何があったとしても・・友達でいて欲しいの」
「お願い」
安倍は矢口の方を向いて言った。
「やぐっつぁんは・・・なっちにとっては大切な人だから」
安倍は矢口を見つめていた。
「お願い」

 「矢口は・・・」
矢口はうつむいてまま話しはじめた。
「矢口は・・・取り返しのつかない事をした」
「そんなつもりは無かったとはいえ・・なっちを殺してしまう所だった」
「矢口はあの瞬間を忘れられない。今でも毎日夢に出てくる」
「芸能界も追い出された・・・でも、そんな事はもうどうでもいい」
「矢口は・・生きていくのがつらかった・・・」

 安倍は立ちあがって矢口の前に立った。
「なっちは生きてるよ?ほら、こんなに元気だよ?」
そう言って安倍はぴょんぴょん飛び跳ねてみせた。
安倍はしゃがみこんでうつむく矢口の顔を覗きこんだ。
「やぐっつぁん・・・もう忘れてよ」
「すぐには忘れられないかも。でも、現実になっちは生きてるし」
「ねえ・・・もう一度やり直そうよ」
「お願い」

 矢口は小さく二回、三回と頷いた。
安倍は矢口の肩に手をかけた。
「ありがとう・・・やぐっつぁん」
矢口は両手で顔を覆った。
「ごめんね」
安倍は立ちあがった。
「やぐっつぁん・・昔のように明るいやぐっつぁんに戻ってよぉ」
「ほら・・・元気出してー」
安倍は力いっぱいの大声を出した。

 辻が散歩から戻ってきた。
泣く矢口に騒ぐ安倍。
状況がつかめない辻は戸惑った。
地面にころがる缶ジュースを黙って拾う。
「あ・・おかえり」
安倍が気がついた。
辻は小さく頷いた。

 「なっちはね・・やぐっつぁんの明るさに救われてたんだから」
「だから・・・笑って」
安倍の言葉に矢口は顔を上げた。泣き顔のままで。
辻もフォローすべきだと思い、言葉をかけた。
「わ、私も・・・矢口さんのあかうさにすすわれてました!」
安倍は辻の言葉に驚いた。
「何言ってんの?・・・ののちゃん」
辻の顔は真っ赤になった。
矢口の顔に笑みがこぼれた。

==================================
 「ふぅ・・・なんとかカタチになったかなあ」
安いアパートの一室。
一つの部屋にはベッドやテレビ。
もう一つの部屋にはリサイクルショップで買ってきた古いデスクと椅子。
首から掛けたタオルで汗を拭く。
「暑い・・・」
電気屋さんがまだ来ていないのでエアコンがまだ無い。
ひとつだけある扇風機の前に座る。
「暑いわ・・・ほんま暑い・・死んでしまいそうや」
窓から入ってくる日差しは暑さを増長していた。

 「あ”ー」
扇風機に向かって声を出してみる。
いくら扇風機を「強」にしても暑い風が強くなるだけだった。
立ちあがってもう一つの部屋に行った。
デスクと椅子。デスクの上には秋葉原でさんざん値切って買ったFAX付き電話。
壁にはこれも中古のホワイトボード。
ホワイトボードには一つだけ予定が書きこまれていた。
「あいぼん上京」

 「プルルルル」
電話が鳴った。焦って受話器を取る。深呼吸をして声を出す。
「はい!中澤エージェンシーですっ」
明らかに作り声と分かるトーン。
「あ・・・加護ですけど」
「なんや、あいぼんか」
声のトーンが急に下がる。

 「どうしたん?支度はすんだんか?」
中澤は上京の準備が出来たのかどうか聞いてみた。
「あ、それは完璧です。それより・・・」
「ん?なんや?」
中澤は出来れば早く電話を切りたかった。この部屋は暑いからだ。
「あの・・安倍さんから電話がありました」
中澤の手から汗を拭いていたタオルが落ちた。
「なんやて?」
両手で受話器を持ち、強く耳に押しつけた。

 「安倍さんから電話がありました」
加護は今度はゆっくりと、はっきり聞こえるように言った。
「安倍って誰や?」
中澤は混乱していた。
「なっちか?」
「はい・・ののちゃんの家にいるみたいです」
加護の言葉に驚く中澤。
「ほんまになっちなんか?」

 「本当ですってば」
中澤は加護の言葉が信じられなかった。
色々な思いが中澤の頭をかけめぐった。
「中澤さん?」
加護の声で我に返る。
「あ・・いつ電話が来たんや?」
「昨日です。昨日の夕方に」

 「なんで早く教えてくれへんかったんや」
「だって・・昨日なんども電話したんですよ」
中澤は思い出した。昨日は引越しと業界関係者への挨拶まわりで忙しくて電話に出るひまが無かった。
「す、すまんかった・・それでなんて?」
加護は昨日の電話の内容を話した。
安倍が何も覚えてない事。何があったのか説明した事。
「元気そうでした」
加護の言葉に中澤はなんとも言えない気持ちになった。

 中澤は決して安倍の事を忘れたわけではなかった。
いや、むしろ一時も忘れていなかった。
何も言わずお別れしてしまった安倍。
連絡もとらずに居た自分。
安倍が戻ってきた事は素直に嬉しかった。
しかし複雑だった。今までの事をどう説明すればいいのだろう。
今、安倍はどんな気持ちなのだろう。
もし、立ち直れないようなショックを受けていたらどうしよう。

 「で・・ののちゃんに中澤さんの新しい住所教えておきました」
「そうか・・ありがとな」
中澤は加護との電話を切った。
そのまま、辻の家に電話をかけてみた。
辻と安倍はいなかった。
帰ってきたら連絡をくれるようにお願いした。
加護を疑うわけでは無かったが、安倍が辻の家に居ることは確認できた。
中澤は電話を切ると扇風機のある部屋に戻った。

 「なっち・・・どこにいるんや」
中澤は安倍に会いたかった。会って話したかった。
いても立ってもいられなかった。中澤は立ちあがって着替えて出かけようとした。
だが、加護の言葉を思い出した。
「ののちゃんに新しい住所教えておきました」
今出かけて行っても会える可能性は低いだろう。
待っていたほうがいいかもしれない。

 「ピンポーン」
インターホンが鳴った。中澤は焦ってドアの方へ走った。
「落ち着け」
自分にそう言い聞かせてカギを開ける。
思うように手が動かずになかなかカギが開かない。
カギが開いた。ドアを開けた。
「こんにちは・・」
そこに立っていたのは電気屋さんだった。

 待てど暮らせど安倍はあらわれない。
外はもう暗くなっていた。
エアコンの「ブーン」という音だけが部屋に響く。
電気屋さんはとっくに帰った。
それから何度と無くインターホンが鳴ったが新聞やらNHKやら宗教やら・・。
もう、今日は無理だろうか。
電話は来るのだろうか。

 「ピンポーン」
またインターホンが鳴った。
「こんどは何やろ?」
中澤は半ば今日は諦めていた。
ゆっくりと立ちあがり、落ち着いてカギを開ける。
ゆっくりとドアを開ける。
そこには、辻が立っていた。
その後ろには安倍と矢口。
中澤は挨拶するのも忘れてドアに手を掛けたまま固まった。

 中澤の視界には辻は見えていなかった。
その後ろの・・・安倍だけが見えていた。
何か言わなきゃ、と思うが声が出ない。
「こんばんわ」
辻が挨拶をしてきた。
固まったままの中澤。
「裕ちゃん・・・固まってるよ」
そう言って安倍はケラケラと笑った。以前のように。
何も変わらずに。

 中澤の目から突然涙が溢れてきた。しかし、声が出ない。
中澤は泣き顔になる自分を見られないようにと下を向いた。
自分でも分からない。なぜか涙が止まらない。
安倍が近くに寄ってきて、そっと中澤の肩に手を掛けた。
「ただいま・・・」
中澤はもう恥ずかしがらずに安倍に抱き着いて、泣いた。
声をあげて泣いた。

 「よーしよし」
安倍は笑顔で中澤の頭を撫でた。
辻は二人の過去に何があったのか知らなかった。
だが中澤がこんなに泣くのを初めて見た辻は、過去によほど何かあったのだろうと感じていた。
矢口は、負い目を感じていた。
一人だけ少し離れて二人を見ていた。
矢口は、苦しかった。

 矢口は少しずつ後ずさりしていった。
このままどこかへ消えてしまいたかった。
辻が後ずさりする矢口に気づいて声を掛けた。
「矢口さん?」
そこ声に反応して安倍と中澤が矢口を見た。
矢口は三人の視線に押しつぶされそうだった。
「やぐっつぁん・・・」
安倍が声をかけた。矢口は反射的に声が出た。
「ごめんね」

 「それはもう無しって言ったでしょ」
安倍は矢口に言った。中澤は事情がわからずきょとんとしていた。
それでも後ずさりする矢口の手を辻が捕まえた。
中澤はようやく口を開いた。
「どういう事や?何があったんや?」
「ま、色々・・・中入っていい?」
安倍の言葉に中澤は頷いた。

 中澤の部屋に入ってそれぞれに座る安倍と矢口と辻。
中澤は冷蔵庫からペットボトルのジュースを取りだし、コップに注いで三人に渡した。
「で・・・何がどうなってるん?」
中澤は自分のベッドの上に座った。
安倍は、これまでのいきさつを話し始めた。
時々矢口の顔を見ながら。

 「そうなんか」
一通り黙って聞いた中澤はそれしか言えなかった。
中澤自身は矢口をとても許せなかったが、被害者本人が許したのだ。
少し複雑だった。
「でさ・・・話し変わるけど、裕ちゃん事務所始めるんだって?」
安倍は唐突に話題を変えてきた。以前からそうだ。
変わらぬ安倍に中澤は嬉しかった。
「そうなんや・・と言っても所属タレントはあいぼんだけなんやけどな」

 「なっちも入れて!」
安倍は中澤に言った。中澤は困った。
以前は事務所があり、自分はマネージャーだった。
しかし今度は経営者である。気軽にOKするわけにもいかない。
安倍は返答に困る中澤をじっと見ていた。
安部の目は・・・いつかのように輝いていた。
「分かった・・・」
中澤は安倍の気迫に押されてOKしてしまった。

 「でね、やぐっつぁんとののちゃんも一緒に」
安倍は言った。困った事に思いつきで言うところまで以前と変わってなかった。
「いや・・矢口は業界から追放されたから・・・」
矢口は静かにそう言った。
「私も、ちょっと無理です」
辻も断った。
安倍は寂しそうだった。
中澤は安倍の寂しそうな顔を見て考えた。

 「実はな、ウチはまだマネージャーがおらんねん」
「ウチは社長やから、ずっとタレントに付いて回るワケにいかんのや」
中澤はそう言って矢口の方を見た。矢口は動揺していた。
安倍も辻も矢口に注目した。
「追放って、アイドルとしてやろ?」
中澤はさらに言った。
矢口は下を向いてしまった。

 「それ名案!一緒にやろうよ」
安倍は矢口の腕を掴んで言った。
「裕ちゃん・・・矢口でいいの?本当に」
矢口は顔を上げて中澤を見ながら言った。中澤は小さく頷いた。
「給料安いけどな」
そう言って中澤は笑った。

 「で・・あのさ・・・」
安倍はさらに何か話す事があるようだった。
中澤は安倍を見た。
「裕ちゃん、ここに同居させてくれない?」
中澤は安倍の言葉にやっぱり、と思った。
「家賃は折半でいいからさ」
どこかで聞いたような言葉だった。
「ええよ」
中澤は簡単に答えた。

 三人が帰った後、中澤は部屋に一人で居た。
安倍は早速明日からやってくると言った。
矢口はとりあえず連絡するまで待ってもらう事になった。
中澤は一人、テレビを見ていた。
中澤はやはり複雑な心境だった。
しかし、安倍が矢口を許したのなら、自分も矢口を責めるのはやめようと思った。
矢口を責めたらとりあえずでも仲直りした二人に亀裂を作りそうだった。

 明日やってくる安倍のためのスペースを作ろうと中澤は部屋を片付け出した。
片付けながら、以前の出来事を思い出していた。
中澤は「あの」時と同じ状況になった事に不安を感じていた。
頭を横に何回も振った。
「前とは違うんや・・・」
それでも不安だった。
今度こそ・・一人にはしないようにしよう。
いや・・・矢口と二人にもしないようにしよう。

 「ピンポーン」
朝早くから訪問者。
「誰やぁ・・・まだ7時やぞ」
寝ぼけながらも玄関に向かい、ドアを開ける中澤。
ドアを開けると安倍が立っていた。
「裕ちゃん、おはよー」
安倍の甲高い声が中澤の頭に響く。
「もう少し小さな声で・・・なんでこんな朝早く来たんや」
安倍はちょっと困った顔をした。
「ののちゃん学校行っちゃうから」

 「そうか・・・」
中澤は頭をかきながら部屋に戻っていった。
「裕ちゃん入っていい?」
安倍はそういいながら部屋に入って来た。
「もう入ってるやんか」
「あはは」
安倍は笑いながらスーツケースを床においた。

 「裕ちゃん、あいぼんの売りこみは済んでるの?」
安倍はスーツケースの中身をごそごそとやりながら話した。
中澤は部屋の片付けの続きをやっていた。
「まぁ・・・」
気のない返事をする中澤。
「どうしたの?なんか問題あり?」
安倍は突っ込んで見た。
「うーん・・・」
中澤は手を休めずにそのまま答えた。

 「そのなぁ・・・あいぼんだけじゃ難しいかも、と」
「言われたの?」
安倍はスーツケースのものを出して勝手に部屋に収納しだした。
「ユニットなら?」
「ユニットならいいかもなぁ。でも、それならまたお願いしにいかないとな」
中澤は手を止めて安倍を見て話した。
「ユニット・・・」
安倍は自分を指差して言った。

 中澤は加護と安倍だけのユニットはやりたくなかった。
それこそ過去の繰り返しになりそうだから。
「だめかなぁ・・・」
安倍は難しい顔をする中澤を見て言った。
「いや・・そうやなくて」
中澤はどう説明していいのか迷った。

 「ユニットは・・・三人がイイやろ?」
中澤は苦し紛れに言った。
「そうだけど・・あと一人は誰?」
安倍の突っ込みに中澤はますます困ってしまった。
「うーん・・・」
中澤は考え込んでしまった。
安倍は中澤の答えを待っていた。

 「あのさ・・・」
安倍は中澤の顔色を伺いながら話し始めた。
「よっすぃー」
「じゃダメ?」
中澤は安倍の顔を見た。安倍は媚びるような目をしていた。
「・・・なんでや?」
中澤は安倍に理由を聞いてみた。

 「いや・・・・」
安倍は中澤から目をそらした。
中澤は安倍がなぜ吉澤を選んだのか不思議だった。
「ふーん・・・よっすぃーか」
まんざらでもない顔をする中澤。
「でしょ?」
安倍は嬉しそうな顔をした。

 「そうやな・・・でも、本人に聞いてみないとな」
「そうだね」
安倍は自信がありそうだった。
「電話してみる?」
安倍は中澤を急かした。
「もう学校行っとるやろ・・夕方にしよう」
中澤は事を落ち着いて進めたかった。

 夕方まで買出しや部屋の片付けをした二人。
安倍は終始上機嫌だった。
中澤はずっと考えていた。これからの事を。
加護、安倍、吉澤でユニット。どうだろう?
「娘。」時代には無かったユニット。面白いかもしれない。
それと・・・なぜ安倍が吉澤を推したのだろう。
中澤は理由を再度聞きたかったが聞かない事にした。

 「そろそろ」
安倍は中澤に電話を促した。
「あ、そやな」
そう言うと中澤は事務所という名前の部屋に行き、電話をとった。
安倍は中澤について部屋に入り、座ってやりとりを聞いていた。
「おひさしぶり。中澤です」

 中澤は吉澤に電話で芸能界復帰と新ユニットについて説明した。
意外に電話は短く終わった。中澤は電話を切った。
「どう?」
安倍は中澤が電話を切ったと同時に話しかけた。
中澤はウィンクしてみせた。
「OKや」

 安倍はほっとしたような顔をした。
「さあ、これから忙しくなるわ」
中澤は背伸びをして言った。
「そうだね」
安倍はそう言ってホワイトボードに目をやった。
加護は・・・明日やってくる。

 「楽しみだね・・・」
安倍はホワイトボードを見たまま遠い目をした。
「そうやな」
中澤は安倍を見ていた。
中澤から見て安倍は何か考えがあるように見えた。
それが何かは分からないし、聞くつもりも無かった。

 安倍と中澤は駅の改札口に居た。
二人とも改札の中を目を凝らして見ていた。
遠くに見える大きなスーツケースを持った加護。
安倍は力いっぱい手を振った。
加護が近づくと安倍は大きな声を出した。
「あいぼーーーん!」
そしてまた手を振った。

 手を振ろうとするが両手でないとスーツケースを引っ張れない加護。
それを見て中澤は吹き出した。
「可愛い」
安倍はつぶやいた。
スーツケースが引っかかって改札から出てこない加護。
中澤と安倍は笑いながら顔を見合わせた。

 「おひさしぶり」
やっと出てきた加護に安倍はまっさきに駆け寄っていった。
加護は緊張の面持ちをしながら安倍に小さくお辞儀をした。
中澤がゆっくり加護に近づいた。
「お疲れさん」
中澤はそう言って加護のスーツケースを持ってやった。

 駅を歩き出す三人。
「あいぼん、あのな」
中澤は加護に話しはじめた。
「ユニット組むことになったんや」
加護はそれを聞いて驚いた顔をしていた。そして、安倍の顔を見た。
「よろしくね」
安倍は言った。加護は小さく頷いて中澤を見た。
「もう一人・・・よっすぃーも」
加護は更に驚いた顔をした。
「びっくりした?」
安倍が笑いながら言った。

 「よっすぃーとね、やぐっつぁんが後から合流するから」
安倍の言葉に目を白黒させる加護。
加護は中澤を見た。何か言葉を待っているようだった。
「まぁ・・そのな、色々な」
中澤はお茶を濁した。
というより、中澤自身説明出来なかった。

 加護の荷物を片付けた三人は矢口との待ち合わせ場所に向かった。
電車に乗り駅から歩いて待ち合わせ場所へ。
移動の間、加護に今までの説明を安倍と中澤の二人でした。
安倍の説明には中澤もはじめて聞く事もあった。
なぜユニットにしたのかは説明しなかった。
加護の自信を打ち砕くような気がした。
加護は何も言わず聞いていた。

 待ち合わせ場所の駅の改札口についた三人。
「裕ちゃん」
声のするほうを向くと矢口と吉澤がすでに待っていた。
ゆっくりと近づく三人と二人。
「おひさしぶりです」
吉澤はそう言って頭をさげた。
「元気だった?」
安倍が吉澤に話しかけた。吉澤は笑顔で答えた。
「それはもう」

 和気藹々と話しながら中澤の家に向かう五人。
ただ、加護と矢口の間には距離があった。目を合わせない二人。
中澤は二人に気づいてはいたが無理はさせないようにした。
加護は安倍のようにはいかないだろう、中澤はそう考えていた。
矢口と安倍が本当に和解したと感ずれば加護も分かってくれるだろう。
きっと時間が解決してくれる。

 中澤の家に着いた五人。部屋に入ると途中寄ってきたコンビニで買ったお菓子やジュースを広げる。
五人も入るとさすがに部屋が狭く感じた。
そこで再会と今後のお祝いを兼ねてジュースで乾杯した。
「娘。」が戻ったようだった。人数は大分足りないが。
中澤は嬉しかった。楽しかったあの頃が少しだけ戻ってきた。

 とりあえず今日は騒いだだけで終わった。
中澤と安倍を残して三人は帰っていった。
中澤は矢口にマネージャーとして加護を送るように命じた。
矢口にはやりづらいだろうがやってもらわねば困る。これからの為に。
三人を見送って部屋に戻る中澤と安倍。
「さて・・これから勝負や」
中澤は気合を込めて言った。
安倍は大きく頷いた。
「がんばろう」

 次の日になると全員でレコード会社に挨拶に行った。
そこでこれからの打ち合わせ。話は意外にトントン拍子に進んで行った。
レコード会社を出ると中澤は矢口にこれからの行動を説明して、後をまかせた。
中澤は自分の部屋に戻って各所に売りこみをした。
元「モーニング娘。」という話題性も手伝ってプロモーションは上手くいきそうだった。
滑りだしは順調そのものだった。

 それからというもの忙しい毎日が続いた。
テレビにラジオにどんどん出演した。シングルの発売まで全力疾走だった。
中澤は忙しさのあまりしだいに打ち合わせが多い矢口以外とは疎遠になりつつあった。
安倍は同居していたものの、帰ってくると疲労ですぐに寝てしまっていた。
中澤は少しばかり不安だった。しかし、自分は社長であって立場が違う。
これは仕方ない事だと自分に言い聞かせた。

 中澤は雑誌やテレビを念入りにチェックしていた。
マスコミの評価はかなり好感触だった。
中澤はかなり手応えを感じていた。
しかし、以前再デビューしようとしたときの事を思い出して時々不安になった。
安倍が帰ってくると中澤はそれとなく体調を聞いていた。
「全然元気だよ。すごく充実してるし、今最高に楽しいよ」
安倍はさらっと言った。
まったく不安の無さそうな安倍に中澤はほっとした。

 ただ、気になっているのは最近静かになった後藤の存在だった。
まるでこちらと歩調を合わせているかのように影が薄くなった後藤。
しかし後藤の事務所は油断できない所だった。
中澤はきっと何か策略があるんだろうと考えていた。
「でも・・今回はウチが頂きます」
中澤はデビューシングルの発売日が書かれたカレンダーを見て言った。
後藤はもちろんライバルが少ないときを選んだ。
きっと上手くいく。

 デビューシングルの発売日が迫ってきた。
中澤を残して全員はレコード会社のスタッフとともにイベント回りで各地を旅していた。
残った中澤は毎日矢口から報告を聞く以外はずっと一人で仕事をしていた。
何本もかかってくる電話が中澤の自信を加速させていった。
その電話の中に意外な人物からのものが混じっていた。
「はい、中澤エージェンシーです」
いつものように電話を受ける中澤。
「あ・・中澤さんですか?」
声の主は女性だった。
「はい、そうですが」
「私、安倍なつみの母でございます・・お世話になっております」
中澤は電話の主に驚いた。

 以前の再デビューに挑戦した時からずっと中澤の悲願だったデビューシングルが発売された。
中澤はこの日ばかりは矢口とともにイベントに同行してまわった。
どのイベントも盛況で中澤はしっかりとした手応えを感じていた。
すべてのイベントを終えてようやく五人がゆっくりと話す時間が出来た。
ひさびさに中澤の部屋に五人が集合した。
中澤は記念すべきデビューシングルを四枚用意しておいた。
それを、一人一人に声をかけながら手渡した。

 「よっすぃー、突然の呼びかけに応じてくれてありがとうな。感謝してる」
吉澤は小さく頷きCDを中澤から受け取った。
「矢口、ご苦労さん。表舞台に立てないけど矢口無しでは出来んかった」
矢口は以前の矢口とは違う大人の笑顔でにこりと笑い、CDを受け取った。
「あいぼん、長かったな・・・やっと、やっとやな」
加護は中澤と同じ万感の思いをこめてCDを受け取った。
「なっち・・・」
中澤はそれ以上言葉が出なかった。
安倍はにっこりと笑ってCDを受け取った。何も言わず。
「さあ・・・ようやくここまで来たで」
中澤は自分に向かってそう言った。

 デビューシングルの発売週の結果をレコード会社の担当者から電話で教えてもらった。
中澤は電話を切ると静かに握りこぶしを握った。
「やった・・・」
シングルは初登場1位だった。
確かに強力なライバルのいない時期をわざわざ選んだ。
それでも、初登場1位はみんなの自信になる。
今日はパーティーでもやろう。矢口に連絡を入れた。

 「では、初登場一位を祝して・・かんぱい!」
中澤の音頭で五人で乾杯をした。
今まで以上の大騒ぎ。特に安倍と矢口。
安倍は自分が倒れてから何も知らずにいた。
その間に「娘。」は解散した。安倍は一度病院を抜け出して復活を試みるも失敗した。
安倍本人は何も記憶していなかった。
しかし安倍はなりふり構わずもう一度復活にかけてきた。
安倍の悲願の夢がやっと実現した。

 矢口は安倍の一件以来ずっと姿を隠してきた。
中澤がひさしぶりに会った時には後悔だけが顔にあった。
しかしマネージャーをやるうちにだんだん明るさが戻ってきた。
矢口の苦しみはすべて安倍に起因していた。
しかしその安倍の復活と、和解、安倍へのサポートなどをする事で徐々に胸のつかえが取れたようだった。
中澤には矢口は安倍を支える事で過去の罪を贖い、自分も救われているように見えた。
矢口は大人になった。

 「あ・・・」
加護が突然に何かに気がついた。
中澤は加護の視線の先を見てみた。
テレビの芸能ニュースに「プッチモニ復活」の文字が・・。
中澤は急いでリモコンを手に取り、ボリュームを大きくした。
音が大きくなった事で全員がテレビに気がついた。
「え・・・嘘・・」
吉澤がぽつりと言った。

 テレビに注視する吉澤。
中澤は吉澤の表情を見ていた。
テレビはプッチモニの復活の予定があり、後藤と保田がそれにむけて準備している事を告げていた。
そして、市井が戻ってくる事も。
吉澤の表情は見る見る青くなっていった。
中澤はぽつりと言った。
「ごっちんが静かだったのはこういう事だったんか」

 テレビの芸能ニュースは続けて自分たちのユニットの話題にうつった。
デビューシングル初登場一位と。
しかし、五人の雰囲気は暗かった。
がっくりと肩を落す吉澤。
それもそうだろう。吉澤だってプッチモニの一員だったハズだ。それが蚊帳の外。
「よっすぃー」
安倍が吉澤の肩に手をかけて声をかけた。
「元気出して・・今はこっちの仲間じゃない」

 テレビはさらに二つのユニットの比較をはじめた。
加護が中澤の手からリモコンを取り、テレビを消した。
その様子を見ていた中澤に加護が言った。
「比較されたくありません・・私達は私達です」
「そうだよ」
安倍が加護の言葉に続いた。
「私達は全然別のユニットなんだから」
吉澤と矢口は黙っていた。

 すっかり白けてしまったパーティーはお開きにする事になった。
加護と吉澤、矢口を玄関まで送る中澤と安倍。
「あのさ、裕ちゃん」
先に部屋を出た加護と吉澤に聞かれないように矢口が小声で中澤に話しかけた。
「これさ・・どうする?」
矢口が手帳を開いて見せた。中澤は手帳を覗きこんだ。
手帳には明日のラジオの生放送のゲスト出演の予定が書いてあった。
もう一人ゲストが・・・後藤だった。
「ま・・今更キャンセル出来んしな。同時に出るかどうかも分からんし」
矢口は中澤の言葉を聞くと小さく頷いて手帳を閉じた。

 「ただ・・何かあったら頼むわ。特に・・・よっすぃー」
中澤は小声で矢口に耳打ちした。
矢口はもう一度小さく頷いた。
「じゃ」
矢口はドアを閉めて帰っていった。
中澤と安倍は部屋を片付け、寝る準備をした。
プッチモニ復活を聞いても冷静だった安倍。
もしかして知っていたのだろうか?
中澤は安倍に疑問を持った。

 中澤は一人で事務所で仕事をしていた。
時々時計をチラリと見ては時間を確認していた。
「そろそろやな・・・」
中澤はラジオのスイッチを入れた。例の番組を聞くためだ。
昨日の異様な雰囲気の吉澤と安倍が心配だった。
なにせ生放送だ。編集出来ないような事言わなければいいが。

 中澤は昨日の夜から今朝の安倍の様子を思い出していた。
安倍はずっと何事も無かったようだった。後藤の事など何も気にしていないようだった。
中澤にはむしろ不気味に思えた。
いや、思い過ごしかもしれない。
安倍はすでに成功を収めている。今更騒ぐことも無い、と思っているのかもしれない。
ラジオが始った。

 パーソナリティの声が聞こえる。中澤はラジオに集中した。
「今日のゲストは・・・」
後藤と三人は同時に出演していた。中澤は焦った。
しかし、安倍と加護の声は冷静だった。心配していた吉澤は声が暗かったが問題無さそうだった。
しばらく番組を聞いていた中澤はだったが何も問題無く進行しているのでひと安心だった。
中澤はデスクから立ちあがり、コーヒーを飲もうとお湯を沸かしに流しへ行った。

 お湯をインスタントコーヒーの入ったカップに注いでスプーンでかき混ぜながら部屋に戻ってきた。
ラジオはプッチモニの復活についての話題になっていた。
後藤のコメントが続く。中澤は思いのほか静かなラジオを立ったままコーヒーを口にして聴いていた。
「で・・・そのために娘。を解散に追いやったわけ?」
安倍の声が聞こえた。かなり大きな声で。
中澤はその場で凍り付いた。
「全部・・・仕組んだんでしょ?」
安倍の声は続いた。

 しどろもどろになる後藤。
「私・・ごっちんは友達だと思ってたのに。何も言ってくれないなんて」
吉澤の声が続く。
「私はプッチモニじゃなかったの?私は何だったわけ?」
かなり興奮ぎみの吉澤。
中澤はカップをデスクに乱暴に置いて電話に手をかけた。
「矢口・・・」
しかし、電話は繋がらなかった。留守番電話になってしまう。
「自分のために娘。全員を騙したの?」
安倍の声は冷静だった。怖いぐらいに。

 中澤は何度も矢口に電話を繰り返した。しかし何度やっても同じ事だった。
「やめて!」
ラジオから矢口の声が聞こえた。かなりマイクから遠くてかすかに聞こえる程度だったが。
中澤は矢口の声を聞き逃さなかった。電話を置いた。
しかし安倍と吉澤は止まらなかった。
困惑するパーソナリティ。
もはや何も言い返せず黙る後藤。
中澤はデスクの椅子に倒れこむように座った。

 「私は何だったの?答えてよ!」
吉澤は今度は逆に涙声になった。
「嘘吐き!」
吉澤の声は叫びに変わっていた。
「なっちとやぐっつぁんの人生メチャクチャにして・・・そこまでして自分の思い通りにしようとするなんて」
安倍の冷たい声が聞こえた。
ラジオは長いCMに入った。
中澤は両手で頭を抱え込んだ。
考えられた最悪のパターンになってしまった。

 長いCMがあけるとパーソナリティ一人だけになっていた。
中澤はラジオを消した。
頭を抱え込んだままデスクに蹲った。
電話が鳴った。
電話は今のラジオに対する問い合わせの電話だった。
中澤は混乱してどう応対していいのか分からなかった。
なんとか誤魔化すしかない。
問い合わせの電話は息つくまもなく次から次へとかかってきた。

 電話の応対に疲れた中澤は逃げ出したくなった。
「いや・・ウチは社長なんや。逃げ出すわけには」
中澤は顔を横に大きく振って気を取りなおした。
また電話が鳴った。中澤は深呼吸して電話を取った。
「裕ちゃん」
電話の主は矢口だった。
「ごめん」
矢口はポツリと言った。中澤は少し考えた後答えた。
「いや・・ええんや。今日はもう終わりやろ?帰って休めや」
「矢口は気にせんでええから」
中澤は電話を切ろうとして最後に矢口に聞いた。
「あ、そうや・・ごっちんは?」
矢口は暗い声で答えた。
「泣いて・・倒れそうで・・マネージャーさんに抱えられながら帰った」

 問い合わせの電話ももうかかってこなくなった。
中澤は仕事をやめて、雑誌を見ながらくつろいでいた。
しかし頭の中に雑誌の事など無かった。
ペラペラとページをめくり、時折時計に目をやる。
中澤は安倍の帰りを待っていた。
安倍に聞きたい事があった。

 鍵を開ける音がしてドアが開いた。
中澤は雑誌をベッドに投げ捨て、玄関へ走った。
「ただいま・・・」
安倍は中澤を見て言った。
「おかえり」
中澤はその場に立ち止まって部屋に入っていく安倍を見ていた。
安倍の表情はいつもと何も変わらなかった。
中澤も追って部屋に入っていった。

 バッグを投げ捨て、疲れた様子でクッションの上に座る安倍。
中澤は安倍の後ろから立ったまま声をかけた。
「なっち・・聞きたい事があるんやけど」
「何?」
安倍は振り向いて答えた。いつもと何も変わってなかった。
「なっちはどこまで知ってるんや?娘。の解散について」
安倍は前を見ながら話した。
「全部・・・やぐっつぁんから聞いたの」
中澤は更に続けた。
「ごっちんの事も?」

 安倍は何も言わず小さく頷いた。中澤は続けた。
「プッチ復活も事前に知ってたんやな?」
安倍は小さく頷いた。
「それは・・・いつ頃や?」
安倍は前を向いたまま答えた。
「裕ちゃんと会う前」
中澤の胸はどんどん高鳴っていった。
「じゃ・・・よっすぃーを推薦した時にはもう知ってたんやな?」

 安倍は小さく頷いた。
「知っててよっすぃーを入れたんか?なぜ?まさか・・・」
中澤は少し焦りだした。冷や汗が額から出てくる。声が震えてきた。
「まさか・・こうなる事を分かってて?最初からそのつもりだったんか?」
安倍は小さく頷いた。
中澤はその場に座りこんだ。そして力の無い声で安倍に言った。
「最初からごっちんに仕返しするつもりだったんか」
安倍は小さく頷いた。

 中澤は目の前が真っ暗になった。
「矢口も・・あいぼんも・・ウチも全部そのためなんか?」
安倍は少し黙った後答えた。
「あいぼんと裕ちゃんは違うよ」
中澤は安倍の言葉を疑った。
「矢口は・・・利用したんか?」
安倍は小さく頷いた。
中澤は首を項垂れ、両手を床に付いた。

 「ごっちんはね」
安倍はゆっくりと話し始めた。恐ろしいくらい冷たい声だった。
「許せないよね。すべては・・あの子がいけない」
中澤は下を向いたまま聞いていた。
「やぐっつぁんはね・・なっちを突き落としたんだよ?裕ちゃんも知ってるくせに」
安倍は更に続けた。
「二人とも・・なっちをずっと騙し続けて、それだけじゃ飽き足らず破滅に追いやろうとしたんだよ」
安倍は急に立ちあがった。
「許せない!ずっと信じてたのに!」
安倍は精一杯の大声で叫んだ。

 「許せない!」
最後にそう叫ぶと安倍は中澤の横をすり抜け、走って外に出て行ってしまった。何も持たずに。
「なっち!」
中澤は焦って安倍を追いかけて外へ出た。
しかしアパートを出たところで立ち止まった。
完全に見失ってしまった。
中澤は呆然とその場に立ち尽くしていた。

 しばらく中澤はその場に立っていたがこうしていても仕方が無いので部屋に戻る事にした。
安倍を捜そうにもどこへ行ったのかまったく見当もつかない。
無闇に捜しまわるよりも待っていたほうが賢明に思えた。
部屋に戻った中澤はカギをかけず、ベッドに腰掛け、安倍の座っていたクッションを見つめていた。
中澤はどうしていいか分からなかった。
これから先・・・上手くやっていけるのだろうか。

 中澤はふと立ちあがり、電話を手に取った。
電話で誰かに話しを聞いてもらいたかった。一人は苦しかった。
中澤は番号を途中まで押して思いとどまった。
中澤はマネージャーであり右腕でもある矢口に電話をかけようとしていた。
しかし・・・矢口になんて説明したらいいのだろう。
安倍の言った事を矢口に伝えていいものだろうか?
中澤はとりあえず安倍が見つかるまで何も言わないよう決めた。

 中澤が気が付いたら朝になっていた。電話を握りベッドに座ったまま眠っていた。
中澤は電話を置いて立ちあがり、家中をくまなく見て回った。
安倍はやはり帰っていなかった。ドアも閉まったままだ。
中澤はデスクの椅子に座って考えた。安倍はどこへいったのだろう。
今日は上手い事にオフだった。助かった、と中澤は思った。
しかし一日だけのオフである。なんとか今日中に見つけなければ明日大変な事になってしまう。
中澤は加護に電話をかけた。
矢口にも吉澤にも事情を話せない。
加護なら・・いつも中立の立場だった加護に協力してもらう事にした。

 電話に出た加護に事情を話す中澤。なんとか矢口や吉澤の部分を隠しながら。
「そうですか・・で、何をすればいいんでしょう?」
中澤は加護の質問に答えた。
「留守番してて欲しいんや。ウチが捜しに行ってる間に帰ってくるかもしれんし」
「分かりました」
加護はそう言って電話を切った。
加護がやってくるまで中澤は安倍がどこへ行ったのか考えていた。

 しかし考えても何も思い付かない。
安倍はバッグも持たずに飛び出していった。お金だってそんなに持っていないはずだ。
中澤は一つ思い出して電話をかけた。辻の家だ。
辻に電話が繋がって安倍が行ってないか聞いてみた。
「ええ・・来ました・・泊まっていきました」
やっぱり・・中澤は思った。
来ました?

 辻は昨晩の出来事を話し始めた。
「突然現れて・・驚きました」
「凄い思いつめた顔をしてて・・泣いてました」
「何かあったんだな、と思って何も聞かずに泊めてあげました」
「家にいる間、ずっと黙ってて・・一生懸命インターネットで何かを捜していました」
「朝起きたら・・いなくなってました」
「何があったんですか?」
辻の質問に中澤は答えられなかった。
適当に誤魔化して電話を切った。

 「もう出て行った後だったか」
中澤はがっかりした。昨晩のうちに電話しておくべきだった。
それにしても何かを捜していた?何だろう。
中澤は安倍の捜していたものがヒントだと思った。
玄関チャイムが鳴り、加護がやってきた。
加護を招き入れ、安倍が辻の家に泊まった事を話した。
何かを捜していた事も。

 「もしかして」
加護は何かに気づいたようだった。中澤は身を乗り出して加護の言葉を聞いた。
「あの・・・確か公開生放送が」
中澤は加護の言葉が良く分からなかった。
「なんや?なんの放送や?」
加護は困った顔をして答えた。
「ラジオの・・ゲストが後藤さんで」
中澤はやっと加護の言っている意味がわかった。加護は続けた。
「時間とか場所は覚えてないですけど、昨日しきりに宣伝してましたよ」
そこまで聞いた中澤は電話を手に取った。
「昨日の局なんやな?」
加護は頷いた。

 中澤は出かける支度を整えた。加護が心配そうに見ていた。
「あの・・でも自信がありません」
「可能性はあるやろ?闇雲に捜すよりはええ」
中澤はそう言って加護に携帯電話を渡した。
「ええか?電話はこの電話だけ出ればええ。中澤って表示が出たら出るんや。他は出んでもええからな」
加護は小さく頷いた。
「なっちが帰ってきたらすぐに連絡するんや。頼むわ」
中澤は不安そうな加護を置いて部屋を出た。

 タクシーに乗り会場についた。会場は観客でいっぱいだった。
人ごみの中に入り人を掻き分けながら進む中澤。
回りの人達が訝しげな顔で中澤を見た。
中澤はそんな事は何も気にしなかった。いや、それどころではなかった。
あたりを見回しながら進む。安倍らしき人物はなかなか見つからなかった。
中澤はふとステージの上を見た。
パーソナリティと後藤がテーブルを挟んで座っていた。
何事も無く番組は進行していた。

 遠くから見た後藤の顔は青ざめているように見えた。
ときおりキョロキョロと辺りを不安そうな顔で見回していた。
声も無理しているのがありありと分かった。
昨日のショックをまだ引きずったままなのだろう。
中澤は少し後藤の事が可愛そうに思えた。
後藤は事務所に踊らされたようなものだ。
後藤も安倍も矢口も・・・そして自分もこの業界に振り回されているのだ。

 安倍を捜しながら中澤は考えた。
もう、この業界を去る潮時なのかもしれない。
みんなが傷ついてきた。もうこれ以上誰もツライ思いをしてもらいたくない。
ここの所の騒ぎで疲れているのか退廃的な考え方しかできない。
中澤は自分が弱気になっている事に気が付き自分を戒めた。
「あかん・・・ウチがそれじゃあかんのや」
中澤はつぶやいた。

 人ごみを掻き分けて進む中澤に周りからブーイングが起こる。
中澤は意にも介さず進む。
どうしても安倍を無事につれて帰る理由が中澤にはあった。
会場の警備員が中澤の行動に気がついた。
中澤を追って人ごみを掻き分けて警備員が近づいてくる。
中澤は警備員の存在に気がつかなかった。

 前へ行けば行くほど人が多くて身動きが取れなくなってくる。
中澤は精一杯背を伸ばして前の方を見てみた。
背が低い中澤はにはよく見えない。足が痙攣しそうなほど爪先立ちをして前を見た。
前の方に安倍らしき服装が見えた。
中澤はそれを確認するとまた人ごみを掻き分けはじめた。
力いっぱい人を押しのけていった。

 さすがに疲れてきて息が切れてきた。
中澤の不審な行動に周りの観客がザワつきはじめた。
警備員は足を早めた。前から後ろから近づいてくる。
中澤は夢中で安倍の方に近寄っていった。
あと少し・・手が届きそうな所までやってきた。
中澤は確信した。間違いなく安倍だ。
手を伸ばした。安倍の服の裾を掴もうとした。
「お客さん、すみません」
中澤の手を警備員が掴んだ。

 中澤は初めて警備員の存在に気がついた。
もう一人の警備員もやってきた。羽交い締めにされる中澤。
安倍に伸ばした手が虚しく宙を切る。
中澤は精一杯の声を出した。
「なっち!」
安倍が振り向いた。やはり安倍だった。
安倍は・・・凍り付くような目をしていた。

 安倍なつみの存在に気がついた観客が騒ぎ出した。
安倍は中澤から顔をそらし、ステージに顔を向けた。
ステージの上の後藤が騒ぎに気がついて客席を見た。
安倍と後藤の目が合った。
中澤は警備員に負けじと力の限りもがく。
「なっち!」
中澤の声は安倍に届かない。

 「いやぁぁぁぁぁぁ!」
突然のステージ上からの叫び声。
後藤が真っ青な顔をしながら立ちあがった。
観客の目がステージ上に集まる。
パーソナリティがあっけにとられて黙ってしまった。
後藤はテーブルの上に置いてあるマイクを手に持ち、力いっぱい客席の安倍に向かって投げてきた。
ケーブルがいっぱいに伸びてマイクはステージの端に落ちた。
スピーカーから「ゴトン」と大きな音がした。

 会場は大混乱になった。慌ててスタッフが飛び出してくる。観客は逃げ出そうとパニックになる。
後藤はテーブルの上にあるものを次々に投げつけてきた。
後藤の錯乱する姿に中澤はあっけにとられてしまった。
スタッフが後藤を捕まえて押さえ込んだ。
それでも安倍を睨みながらもがく後藤。
スタッフに引きずられながらステージから消えていく後藤。
後藤は壊れてしまった。

 中澤はあまりの事に唖然としていたが、同じく唖然とする警備員が手を離している事に気が付いた。
中澤は警備員から逃れ、まだそこに立っていた安倍の腕を掴んだ。
「なっち!帰るんや」
安倍は反応しなかった。
「なっち!一緒に帰ろう」
安倍の腕を力いっぱいひっぱる中澤。
「なっち・・みんな待っとるんや・・帰ろう」
安倍はゆっくりと振り向いた。安倍の顔は笑顔だった。
いつか見た、屈託の無い笑顔だった。

 そしてゆっくりと地面に崩れ落ちる安倍。
中澤にはスローモーションのように見えた。
安倍は地面に横になった。
中澤は安倍の手を離し安倍の体の抱きかかえた。
「なっち!」
中澤の声は周囲の混乱でかき消された。

 「あ・・あいぼんか?」
中澤は携帯電話で家にいる加護に電話をかけていた。
「ラジオ聞いてました・・何があったんですか?」
加護の声は震えているようだった。
「安倍さんは?居たんですか?」
中澤は加護の話しは聞かずに一方的に話した。
「あいぼん、お願いがあるんや。矢口とよっすぃーを家に呼んでくれんか」
「ウチも少ししたら行くから」
中澤の沈んだ声に気づいたのか加護は何も聞かず小さな声で「はい」と答えた。
「頼むわ。みんなに話さなきゃならん事があるんや」
中澤はそう言って電話を切った。
中澤は電話をポケットに入れて長い廊下を歩き出した。

 とある部屋についた中澤はドアを開けて中に入った。
部屋の真ん中にはベッドがあった。殺風景な部屋。
中澤は静かにドアを閉め、ベッドの横にある椅子に座った。
しばらく下を向いて黙っていた中澤。
顔を上げてベッドに横たわる安倍の顔を見ながら小さな声で話し始めた。
「なっち・・・ごめんな」
安倍は眠っていた。

 「ウチはな、こうなる事知ってたんや」
「黙ってて・・ごめんな。でも、言えんかったんや」
「なっち、矢口を恨まんといて」
「あの子はなっちを支える事で自分も救われてたんや」
「なっちが許してやらんかったら矢口は一生救われないんや」
「しかし・・・なんで相談してくれなかったんや」
「ウチはなっちにとって信用出来ん人間だったんか?」
「復讐は出来んけど・・何かもっとイイ方法があったんやないか?」
「なんで相談してくれへんかったんや」

 「色々あったけど、娘。結成の時からずっと一緒だったやんか」
「一緒に苦労してきたやんか」
「でも・・最後まで心開いてくれへんのか?」
中澤の目から涙が溢れてきた。
「どうして・・相談してくれなかったんや」
中澤は両手で顔を押さえた。
「なっち」
中澤は安倍の眠るベッドの端に顔を埋めて泣いた。

 中澤はしばらく泣いたあと、涙をハンカチで拭い立ちあがった。
「なっち、もう行かなあかん・・みんな待ってるんや」
「なっちをみんなに会わせるわけにいかんのや。特に矢口には」
「落着いたら、みんなで会いにくる。それまで我慢してや」
そう言って中澤は振りかえり、ドアを開けて廊下に出た。
中澤はうつむいたまま静かに歩いて外へ出た。

 部屋に着いてドアを開けると部屋の奥から加護が飛び出してきた。
「中澤さん・・・」
それだけ言って中澤の顔を見つめる加護。
中澤は何も言わずドアを閉めて部屋に入った。
さらに矢口と吉澤も出てきた。二人とも無言だった。
中澤は何も言わず三人と目を合わさずにデスクのある部屋に入って椅子に座った。
三人も追って部屋に入った。

 「裕ちゃん、あいぼんから聞いたよ」
矢口が中澤に話しかけてきた。
「なっちは?」
「まあ、座れや」
中澤は矢口の質問を遮った。三人はそれぞれに座った。
「で、なっちは?」
矢口はイライラしているようだった。中澤はそんな矢口を無視して話し始めた。
「今まで隠しててすまんかった・・・落着いて聞いてや」

 「なっちは時間切れなんや」
中澤の言葉に顔を見合わせる加護と吉澤。矢口は興奮ぎみに中澤に言った。
「なにそれ・・どういう事?」
「落ち着けや・・矢口」
中澤の言葉に矢口は不満そうな顔をしながら深呼吸をして深く座った。
「なっちが意識取り戻したのはほんまに奇蹟だったんや」
「医者もお手上げの状態だったんやから」

 「奇蹟的に復活したなっちをな、ご両親は病院から出す気はなかったんや」
「なっちは・・・いつ元に戻るか分からん状態だったんや」
「それは・・いつ意識が無くなってもおかしくないって事ですか?」
加護が割って入った。
「そうや」
「でも、なっちは病院を抜け出してきてしまったんや」
「ご両親はそれは必死になっちを捜したんや」

 「でもなかなか見つからなくてな・・つまり、ウチらと一緒だったわけや」
加護は泣きながら下を向いた。吉澤は目を閉じて唇を噛んでいた。
「ご両親はテレビで歌うなっちを見たんや」
「それでウチに電話があってな」
「テレビで歌うなっちは幸せそうだと」
「いつかは元に戻ってしまうんなら・・・いっそ」
中澤は涙声になってきた。
「いっそ、最後まで輝かせてあげたい、と」
「中澤さん、よろしくお願いします、と」
中澤の顔は涙でいっぱいになった。

 しばらく沈黙が続いた。
加護は声を出して泣いていた。吉澤は押し黙っていた。
矢口は下を向いたままだった。
「なっちは・・時間切れなんや」
中澤はもう一度言った。
「黙ってすまんかった・・言えへんかったんや」
「ほんまに・・・ごめんな」

 矢口は立ちあがった。
「何で言ってくれなかったの?矢口はマネージャーなのに」
興奮する矢口はデスクの前まで来て、デスクに両手をついて中澤を睨んだ。
「何で!答えて裕ちゃん!」
中澤は涙目になりながら矢口を見つめた。
中澤は答えられなかった。どういう風に言っても矢口を苦しめる事になるからだった。
加護が立ちあがり矢口の両肩を掴んでひっぱった。
「矢口さん・・落ち付いてください」
「今は・・それよりも、これからどうしたらいいか考えましょう」
加護は中澤の気持ちを理解しているようだった。

 矢口は不満そうだったが加護に言われて元の場所に座った。
「これから・・・どうするの?」
矢口は社長である中澤の指示を仰いだ。
「とりあえず、今日マスコミにFAX流しとく」
「安倍なつみは健康上の理由で引退・・・ってな」
中澤の言葉に矢口が反論した。
「引退って・・・しばらく休養じゃダメなの?」
「いつ戻るか分からないじゃない!一回は戻ったんだから!」
矢口の言う事はもっともだった。しかし、中澤はあえて引退という言葉を使った。
「いつ戻るのか分からんのやぞ・・もしかして50年後・・あるいは」
中澤の言葉に加護が割って入った。
「中澤さんらしくないですよ・・・」

 中澤は正直安倍が戻ったとしてももうこの業界に居させたく無かった。
娘。結成当初から身を削るようにしてきた安倍を中澤はもう見たくなかった。
結婚でもして普通に幸せに暮らしてもらいたかった。
表面的には明るく振舞っていても、内では一人で苦しむ安倍を中澤はもう見たくなかった。
どうしてそんなに業界に拘るのか?
中澤はとうとう安倍に聞けなかった。

 「安倍さんが戻ってきて・・一番喜んだのは中澤さんじゃないですか」
加護は手で涙を拭きながら言った。
「なっちがやり直す勇気をくれたんだって・・言ってたじゃないですか」
「安倍さんは・・・このユニットにとって無くてはならないものじゃないですか」
加護は中澤とずっと一緒に復活計画を練ってきた。
一番中澤の心境を理解している人間だった。
「安倍さんは、私達の復活の象徴だったじゃないですか」
加護の言葉に下を向いてこたえられない中澤。
いつのまにか自分は別人になってしまったのだろうか?

 「裕ちゃん・・長期の休養って事にして」
矢口が念を押すように中澤に言った。
「私からもお願いします」
吉澤も矢口を援護した。中澤は反論出来なかった。
「分かった・・・長期休養って発表するわ」
中澤は折れた。

 「で・・明日からの仕事はどうするの?活動休止?」
矢口はさらに中澤に意見を求めた。
「それはあかん。テレビレギュラーももらえそうなのに今休止したら・・」
中澤はため息をついた。
「なっち抜きでやるんや」
中澤の言葉に動揺する三人。
「そんな・・」
加護はつぶやいた。

 中澤は三人に仕事を休止させたくない理由は別にあった。
特に矢口に。
安倍の事で苦しむ矢口をこのまま休ませたら一人で酷く悩むだろう。
もともと安倍がこうなってしまった原因は矢口にある。
だから仕事をさせて考え込む時間を与えない方が得策だと考えていた。
「明日から二人でやるんや」
中澤は強く言った。

 矢口と吉澤は唖然としていた。
「分かりました」
加護だけが中澤に答えた。
「吉澤さん、安倍さんが戻ってくるまでがんばりましょう」
加護は吉澤に向かって言った。吉澤は小さく頷いた。
「矢口・・大変だとは思うけど頼むわ」
中澤の言葉に矢口は何も答えなかった。

 「じゃ、そういう事で・・今日は解散や」
中澤はそう言って立ちあがった。
「待ってよ!なっちの居場所は教えてくれないの?」
矢口も立ちあがって中澤に言った。
中澤は黙って首を横に振った。
「何で?何で!」
矢口は怒った。加護が立ちあがって矢口の手を掴んだ。
「帰りましょう・・矢口さん」

 「分かってくれや・・ウチかてツライんや」
「ごめんな」
中澤は矢口に対して深く頭を下げた。
矢口はそれを見て少し困った顔をして吉澤と加護の方を向いた。
「明日は10時だからね・・」
矢口はそう言って部屋を出て行った。吉澤が後についていった。
そして部屋を出て行こうとする加護を中澤は呼びとめた。

 「すまんな・・あいぼん」
中澤の言葉を聞いて加護は笑顔で答えた。
「中澤さんの事だから何か考えがあるんだと思っています。信じてますから」
力の無い笑顔だった。
「じゃ・・」
加護はそう言って部屋を出て行った。

 中澤は少し一人で休んだあと、出かける準備をした。
後藤に会いに行くために。それと、社長として謝罪をしに。
過去に何があったとしても自分の所のタレントが迷惑をかけたのだから。
個人的な感情は殺していた。
中澤は自分が社長で責任ある立場だと自分に言い聞かせて部屋を出た。

 タクシーに乗り中澤は病院に着いた。
病院に入り後藤のいる部屋を書いたメモを手に廊下を歩く中澤。
「あ・・中澤さん?」
誰かが声をかけた。中澤は声の主をキョロキョロと捜した。
「あ・・こんにちは」
中澤は声の主を見つけて挨拶した。後藤のマネージャーだった。
「このたびは・・ほんまにすいません」
中澤は深く頭を下げた。

 「いえ・・御気になさらずに」
マネージャーはそう言った。
「後藤は・・少し前から様子が変でしてね」
「まあ、こうなったのも無理をさせたウチにも問題があるんで」
マネージャーの言葉に少し驚く中澤。
「様子が変?」
マネージャーは中澤の言葉に頷いた。

 「ええ。まあ・・口で言うより本人にお会いになればわかるとは思いますが」
「では・・急用があるんで。失礼します」
マネージャーはそう言って中澤に一礼した。
中澤も頭を下げた。
歩き去るマネージャーを中澤は見送った。
「会えば分かる?」
中澤はマネージャーが見えなくなると振りかえり廊下をさらに歩いていった。

 中澤は後藤の部屋の前に着いた。さっきのマネージャーの言葉が引っかかっていた。
「会わないほうがええんかな・・・」
躊躇する中澤。しばらくドアの前で立ち止まっていた。
「あかん。ウチは責任ある立場なんや」
中澤は深く深呼吸してドアを開けた。
部屋の中は意外に静かだった。
中澤は静かにドアを閉めた。

 部屋の真ん中にはベッドがあり、後藤がベッドの上に座っていた。
呆然と前だけを見つめる後藤。中澤は声をかけるのを躊躇った。
後藤のマネージャーの言っていた事はこれなのだろうか?
呆然とする後藤。身動き一つしない。
中澤はゆっくりと近づいていった。勇気を出して声をかけてみた。
「ごっちん」

 後藤は中澤の声に反応して突然中澤の方を向いた。
あまりに急な動きだったので中澤は驚いて立ち止まった。
「いやぁぁぁぁぁ!」
後藤は突然叫び出した。中澤は驚いて後ずさりした。
後藤は立ちあがり、ベッドを降りて部屋にあるものを手に掴んだ。
そしてそれを中澤に向かって投げてきた。
中澤は飛んできたものをよけながらさらに後ずさりした。

 次々に色々なものを投げつけてくる後藤。
両手で頭を押さえ姿勢を低くする中澤。
「ご・・ごっちん!どないしたんや」
中澤の声は後藤には届かない。
「いやぁぁぁぁ!来ないで!来ないでやぐっつぁん!」
中澤は後藤の言葉に驚いた。頭を低くしたまま中澤も大声で叫ぶ。
「ごっちん!ウチが誰かもわからへんのか!」
飛んできたものが中澤に当たり、中澤は顔を下に向けた。

 そして突然静かになった。
中澤は恐る恐る顔を上げて見た。
後藤は部屋の隅で小さくなって座っていた。
中澤はゆっくりと後藤に近づいていく。
後藤は泣きながら小さな声でなにか呟いていた。
中澤は後藤のすぐそばまで近づいて後藤の言葉を黙って聞いた。
後藤は目にいっぱいの涙を溜め、じっと床を見つめていた。

 「もう許して・・やぐっつぁん」
「後藤が悪かったよ・・・全部」
「後藤が事務所に唆されなければこんな事にならなかった」
「だから・・許してください」
「お願い・・・」
中澤は後藤の言葉を聞いて唖然とした。
矢口?

 後藤は両手で耳を塞いで震え始めた。
「また・・電話・・やぐっつぁんからだ」
「もうやめて・・・」
中澤は震える後藤を見つめていた。
「もう来ないで・・・やぐっつぁん・・・お願い」
中澤は立ちあがった。そして俯いたまま部屋を後にした。

 中澤は俯いたまま廊下を歩いていた。顔には苦悩の表情が浮かんでいた。
後藤を追い詰めたのは矢口だった。
安倍と吉澤はとどめを刺したにすぎない。
マネージャーの言っていた「様子が変」とはこの事だった。
すべての発端は後藤にある、と矢口は言いたいのだろうか。
それとも安倍の事を思うばかりに後藤を攻撃したのだろうか。

 中澤はふらりと目に付いた居酒屋に入った。
ツラくて酒でも飲まないといられなかった。
一人でカウンターの端に座り酒を煽る中澤。
「なんで・・・こないになってしまったんや」
中澤はうっすらと涙を浮かべて一人呟いた。
「みんな・・仲良かったんや無かったんか?」
モーニング娘。時代を思い出していた。

 ずいぶん酔った中澤はふらふらとした足取りで部屋に帰ってきた。
もう随分遅い時間になってしまった。
真っ暗な部屋に入ると電話機の留守電のマークがちかちかと点滅していた。
中澤は電気を付けて、留守電のメッセージ再生ボタンをおした。
バッグを投げ捨てて、メイクを落しに洗面所に向おうとする。
「裕ちゃん・・ごめんね」
メッセージの声で中澤は立ち止まった。
間違い無く矢口の声だった。

 メッセージはそれだけだった。中澤は酔っている自分の耳を疑った。
もう一度留守電の再生ボタンを押す。
「裕ちゃん・・ごめんね」
もう一度聞いても矢口の声だった。
中澤は悪い予感がした。
「まさか・・」
中澤はそのままの格好で靴も履かずに部屋を飛び出した。

 酔っている中澤は思うように走れなく、何度も転んだ。
膝や肘にスリ傷を作りながらも走る中澤。痛みは感じなかった。
「タクシー!」
大通りまで走ってきた中澤はタクシーを大声で呼びとめた。
「運転手さん・・・急いでや!」
中澤はタクシーの中でひたすら祈った。

 中澤を乗せたタクシーは病院に着いた。
支払いをすませ、緊急外来の入り口へ急ぐ。正面はもう閉まっている。
自動ドアが開くのがもどかしく、両手で無理やりこじ開ける。
「ちょ・・待ってください!」
入り口近くに居た係員が中澤を見て飛び出してきた。
中澤は係員には目もくれずに全力で長い廊下を走る。
エレベーターを待っていられない中澤は階段を駆け上がっていく。

 アルコールのせいで息が上がる。苦しい。
それでも中澤は全力で走った。
ある一つの部屋の前に着くと中澤は力いっぱいドアを開けた。
真っ暗な部屋。
中澤は手探りで電気を探して、スイッチを入れた。
急に部屋が明るくなった。
部屋の真ん中にはベッドがあり、安倍が寝ていた。
その脇にはベッドに蹲る小さな体があった。

 中澤はベッドに駆け寄った。
そして小さな体を引き起こした。
「矢口!」
小さな体は手首から流れる血で真っ赤に染まっていた。
白いベッドのシーツや床にもおびただしい血が・・・。
「矢口!しっかりせえ!」

 静かに眠る安倍の胸元あたりにメモが置かれていた。
中澤はメモを読んだ。
「全部ヤグチが悪い みんなごめんね」
そう走り書きされていた。
「矢口!しっかりするんや!」
中澤は矢口の体をゆすった。矢口の首は力なく揺れた。
「矢口!目を覚ますんや!」
中澤は矢口の頬を平手で殴った。何回も。
「矢口・・・矢口まで・・なんでやぁ」
泣きながら中澤は矢口を抱いた。矢口は冷たかった。

 「何て事したんやぁぁぁぁぁぁ!」
中澤の絶叫が静かな病院に響き渡った。
 
 

                         
                       安倍は静かに眠っていた。

 
                                           終


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