ドライブするのだっ!
「ねぇ…なっち」
突然、背後から小声で呼び止められた安倍は、歩みを止めてそっと後ろを振り返った。
そこには、悪戯っぽい笑顔を浮かべた小さな体に怖い…じゃなかったカワイイ顔の矢口が立っていた。
「な、なに?」
安倍は少し訝しげな顔をしながら、顔だけを後ろに向けたまま返事をした。
矢口がこういう顔の時はきっとロクな事考えてない。きっと。いや、間違いなく。
安倍はそう直感し、無意識に防御する体勢になっていた。
そんな安倍の様子をまったく意に介する事もせず、矢口はニヤニヤしたまま近づいてきた。
何もそんなに近づかなくたって聞こえるのに。安倍はそう思ってますます怪訝そうな顔をした。
「あのさ、ちょっとイイ?」
周りには聞こえないような小さな声で話し掛けてくる。
そして、安倍の服の裾を掴んで、廊下の隅の人気のなさそうな所まで引っ張っていった。
「何?一体」
安倍の質問に返事もせず、矢口はポケットをごそごそとやった。
その様子を今度は不安そうな表情で見守る安倍。
そのポケットから出てきた小さな手の中には、一枚のカードが握られていた。
そして、そのカードを安倍の…鼻にくっつきそうな位に近くに…目の前に掲げた。
しばらくきょとんとしていた安倍は、突然大きな声をあげた。
「あー!何コレっ!」
安倍が思わず手を出してそのカードを取ろうとした。
間髪入れずにカードを持った手を下げる矢口。そして、人差し指を口に当てた。
「大きな声出さないでよ」
「何何?なんで?いつ取ったの?」
「夜中に教習所に通ったんだ」
「えー…いいの?」
「マズいかも」
矢口はそういうとニヤリと笑った。
「車の免許かぁ…いいなぁ。なっちも欲しい」
「フフ。いいでしょ」
羨望の眼差しで矢口ではなく免許証を見る安倍に、矢口は更に小さな声で言った。
「でさ、今日、ココに泊まりじゃん?深夜にドライブでもどう?」
「えええ!?」
安倍は思わず、また大声を出してしまった。
そしてすぐに、矢口の怖い顔を見て、肩をすぼめた。
「でも…どうやって?車なんて無いじゃん?」
「大丈夫」
「ココってよく分からない所だし…何市だっけ?」
「大丈夫。そんな遠くに行くわけじゃないし」
「でもツアーの最中だし…」
「朝までに部屋に戻れば大丈夫だって!」
今度は矢口が声を張り上げた。
今まで小声で話していただけに、突然の矢口の大声に安倍は仰天した。
「あ、ごめん…ホント大丈夫だって。行こうよ。ね?」
矢口のおねだりするような声と表情に安倍はついに負けてしまった。
それに満足した矢口は、一方的に時間と場所を約束して、そのまま早足で行ってしまった。
その場には、未だに驚きの表情を浮かべたままの安倍が立っていた。
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深夜、約束の時間になると、安倍は誰にも気付かれないように、そっと部屋を出て、約束の場所に歩いていった。
みんなが寝静まった時間。いくらホテルの廊下が明るいとはいえ、不気味な静けさも手伝って、安倍はこれからの事がどんどんと不安になっていった。
ロビーの、人通りの少なそうな隅の方へとやってきた。キョロキョロとあたりを見回すが、矢口の姿は無かった。
もしかして忘れてもう寝ちゃったとか?
安倍は不安になった。しかし、少し待ってみようと思い、壁に背をもたれて立っていた。
広いロビーを眺めてもほとんど誰も通らない。ホテルのスタッフの人がいるくらいだった。
やっぱりもう部屋に帰ろうか。
そう思ったとたん、横から突然声をかけられた。
「お待たせ」
突然の声に少しばかり驚きの表情を浮かべながら、安倍は横を向いた。
「もう寝ちゃったのかと思ったよ」
「いや、ごめんごめん。ちょっと手間取っちゃって。さ、こっちこっち」
らしくない地味な格好の矢口に手招きされ、安倍は壁から背を放して歩きだした。