犬になりたい


「私って変?」

石川はここの所ずっと悩んでいた。
何に悩んでいるのか…それは、世間一般的にはあまり受け入れられない恋をしてしまったからだった。
もし、こんな気持ちが知れたら…石川は自分の正直な気持ちと、やっぱりいけないという自制心のハザマで苦しんでいた。
いけない、という気持ちが更に自分の気持ちを加速させている。

「私って、やっぱり変なんだ!」

誰にも言えない苦しみを、心の奥底で叫んでいた。
どうしてこんな事になったんだろう…。
そんな事考えてもどうしようもない。好きになってしまったのだから。

しかし、その気持ちを公にする事は決して出来なかった。
きっと、言ってしまったらすべてが終わってしまうから。
夢も、希望も、現実も、何もかも終わってしまうから。

苦しいけど…悲しいけど…このままがいい。
そう自分に言い聞かせるしか無かった。

石川は憂鬱だった。
好きだから近づきたい。でも、好きだからこそ苦しくて近づきたくない。
矛盾している気持ち。

「どうした?最近元気無いぞ?」

そう話し掛けられた。石川は、思わず矢口との間に空間を空けてしまった。
不思議そうな顔をする矢口。
石川は、すぐに自分がおかしな行動をしている事に気づいた。平穏を装わないといけない。

「いえ、なんでもないんです」
「悩み事か?何でも相談しろよ」

相談なんて出来るわけがない。したら、それはすべて話してしまう事と同じだ。隠していた気持ちを告白してしまう事と同じだ。

「ホントに…なんでもないんです」
「そうか。いつでも言ってくれよ!」

そう言って矢口はどこかに歩いて行ってしまった。
石川はホッとしつつ、やっぱりもっと話したいという気持ちと、自分のことを気遣ってくれたという嬉しさが入り混じって複雑だった。

そう…石川は同性の矢口に思いを寄せていた。
最初、それは単なる憧れでしかなかった。しかし、徐々に…憧れから、恋心へと移り変わっていった。
石川は、そんな自分の気持ちに気づき、同性を愛してしまった事に酷く悩んでいた。
娘。のメンバーはみんな男の子が好きだった。無論、矢口もそうだ。
石川はそれを知っているがために、余計に思い悩んだ。

自分だけ変なんだ…。同性を好きなんて言ったら矢口さんは一体どう思うんだろう。

石川は、恋をした誰もがそうであるように、矢口に嫌われる事は何よりも怖かった。
だから、自分の気持ちはとても矢口に告白など出来なかった。

矢口が誰かと仲良くしていると苛立った。
冷静な自分が言う。
「矢口さんは自分のものじゃないから当然でしょ…」
そうは判っていても、本心は抑えきれなかった。
つい、態度や言葉に苛立ちが表れてしまう。

しかし、その自制心がむしろ石川の気持ちを加速させ続けていた。
簡単に告白し、簡単にふられたならすぐに忘れられただろう。
言えない、言ってはいけないという事が、どんどんと心の中の圧力を高くしていった。
風船を水に沈めようとするように、押さえつければ押さえつけるほど、その気持ちの反発する力は大きくなっていった。

「私は一体どうしたらいいの!」
思わず絶叫する事もあった。
誰にも言えない。誰も理解してくれない気持ち。
ただ一人で思い悩んでいた。



「石川、最近変だぞ?」

矢口にそう話し掛けられると、石川は何も答えられなかった。

「どうした?」

心配そうな顔を見せる矢口。石川はその顔を見て自分が抑えきれなくなった。
思わず矢口の手を握る。
なんら不自然な事ではない。矢口もにこやかに手を握り返してきた。
しかし、石川の息遣いは荒く、表情は明らかに興奮ぎみだった。

「どうした…熱あるんじゃないか?」

矢口は握っていた手を放し、石川の額に手をあてた。
石川の自制心は完全に消えてしまい、とうとう思いを口にしてしまった。

「矢口サン…好きです」
「そうか!オイラも石川好きだぞ!」

石川はがっかりした。そして、すぐに自制心を取り戻し、矢口の返事が当然な事だと思った。
好き…という言葉の意味が違う。重みが違う。
さんざん悩んだあげくついに口に出た思いは、ちゃんと意味が伝わらなかった。
石川と矢口のそれぞれへ思いは、まるで違ったものだった。

矢口は、誰とでも分け隔て無く接していた。また、それが矢口の一番イイ所でもあった。
そして、それが石川の嫉妬心を煽っていた。
自分だけに優しくしてもらいたい。自分だけ特別になりたい。
誰もが思うその気持ち。
しかし、石川はもうその心境では無かった。
自分だけのものにしたい。独占したい。矢口さんを支配したい…。

石川はもうすでに限界に達していた。
どんなに思っても、それを声に出したとしても、気持ちは通じない。
たとえ強引にキスを迫ったとしても、きっと笑い事ですんでしまうだろう。
もう、発狂寸前だった。いや、すでに、おかしかったのかもしれない。それすら自分で判断出来ないほどに。

どうやったら、思いを寄せるあの人に振り向いてもらえるんだろう。
石川の頭の中にそんな考えはもうとっくに無かった。
どうやっても振り向いてもらえない。ならば、どうやったら自分だけのものになるんだろう…。
どうやったら自分の思い通りになるのだろう…。
石川の思考は、世界は、歪んでいた。


とある日、石川は矢口を自宅に招いた。
矢口は快く石川の招待に応じた。
石川は心に決めていた。今日こそが勝負だと。
今日こそ矢口を自分だけのものにすると。

石川と矢口は、仲良く揃って石川の自宅へ向かった。

「なんか体調悪そうだぞ…」

石川は矢口に指摘されて、初めて自分が酷く緊張している事に気付いた。大きく深呼吸をする。

「大丈夫です」
「そうか?また今度にしてもいいんだぞ?」
「いや!絶対今日来てください!」

石川の迫力に矢口はかなり驚いたようだった。

「わ、わかったよ…」

石川は自分がかなりおかしな状態な事に気付いていた。だが、しかし、自分でそれをコントロールできなかった。
矢口に気付かれないようにするだけで必死だった。自分が何を考えているかを。

自宅に着き、部屋に矢口を招き入れ、石川は飲み物を取りに台所へ向かった。
そして、そこで飲み物に…予め買っておいた睡眠薬を適量入れた。
手が震えた。バレないように何度も何度もかき混ぜた。冷たい汗が落ちてきた。

そして、部屋に戻り、矢口に睡眠薬入りの飲み物を勧めた。
石川は矢口の動向をじっと伺っていた。
お願い…気付かないで…。

矢口は何の疑問ももたずに、一気に飲み干した。
その時、石川は思わず不気味な笑みをこぼしてしまった。
そんな石川を見て不思議そうにする矢口。
しかし、すぐに矢口は猛烈な眠気に襲われ、その場に倒れてしまった。
石川は勝利を噛み締めた。すべて思い通りに…とうとう矢口を自分だけのものに。


矢口が目を覚ますと、そこはまだ石川の部屋だった。
しかし、何か変だった。体が動かない。何か締め付けられたような感覚。
意識のはっきりとしてきた矢口は、自分が拘束されている事に気付いた。
手には手錠。足には足枷。そして…首輪。
首輪はベッドの足にチェーンで繋がれていた。
そして…自分が何も着ていない事にも気付いた。

矢口が自分の置かれた立場に驚いていると、石川が部屋に入ってきた。

「なんだよこれは!」

矢口は石川の顔を見るなり怒鳴った。
石川は、クスッと笑い、何事もなかったように自分の用事を始めた。矢口に見向きもせずに。

「何とか言えよ!おい!」

矢口が何を言っても石川はまったく気にもとめなかった。

矢口はその後も石川を罵倒しつづけた。
当然である。矢口にしてみれば、今まで良くしてやったのにこの仕打ちである。
それも普通に裏切ったりするならまだわかる。この陵辱は矢口にはとても耐えがたいものだった。
しかし、大声で罵倒しつづけた矢口も、さすがに声が枯れ、疲れと石川への恐怖で弱腰になっていった。

「石川ぁ…もうイイにしてくれよ」
「オイラが何したのか分からないけど、謝るから」

矢口は目にいっぱい涙をためながら訴えた。
しかし、それも石川はまったく聞き入れなかった。

そのうち、矢口の顔は真っ青になり、表情は苦痛に歪むようになっていった。
石川はその様子を見て、ようやく矢口に目を向けた。
矢口はそれに気がつき、許しを乞うかのよう悲しげな声で石川に訴えた。

「お願い…少しだけでいいから放して…」

石川はすぐに矢口が何を言いたいのか分った。
そして、部屋を出て行き、すぐに何かを持って帰ってきた。
それは…砂がいっぱいに入った大きめの箱…猫用のトイレだった。
それを矢口の目の前においた。

「フザケンナァッ!!!」

矢口は唯一自由が利く首だけを使ってその箱をひっくり返した。
石川は、それを見るとまた何事もなかったように本を読んだり、メールしたり、音楽を聴いたりし始めた。
矢口はその場に蹲り、苦しさと悲しさでうめき声をあげていた。


一夜あけ、石川は寝ている矢口にそっと近づいた。
石川が寝ている間に相当泣いたようだった。まだ、顔にうっすらと涙の後が残っていた。
石川はそっと矢口の足枷だけはずした。気付かれないように。
そして、猫用トイレの砂を綺麗に元に戻し、またそこに置いておいた。
寝ている矢口を起こさないよう、そっと仕事に出かけた。


石川がスタジオに到着すると、事務所の人たちが騒然としていた。
それとなく耳を傾けてみると、矢口と連絡が取れない、という内容だった。
石川は何も無かったかのように、そのまま通り過ぎ、仕事に入った。

仕事中も、メンバー達の間で矢口の話題で持ちきりだった。
色々な噂が飛び交った。
石川は、そんなメンバー達の会話をむしろ楽しみながら聞いていた。
いや、むしろ、自分だけが事実を知っている事に優越感さえ感じていた。

仕事が終わり、まだ混乱するスタッフを尻目に、石川は足早に自宅へと戻った。
部屋のドアを開けると、矢口が物凄い形相で石川を睨みつけた。
石川が矢口の視線を気にせずに、砂の入った箱を見ると、それはまだ朝見たままの状態で置かれていた。
近づいてよく見ると、砂にしっとりと湿気があった。

石川は笑みを浮かべ、初めて矢口に口を開いた。

「ちゃんと出来たじゃない」

矢口は顔を真っ赤にし、強く唇を噛んだ。
そしてまた、目から涙を浮かべ始めた。
石川は、その表情を見て、優しさと愛情に満ちた笑顔を見せた。
矢口にとって、その石川の顔は悪魔の笑顔に見えた。

そして、石川は部屋から出て行き、しばらくしてからまた戻ってきた。
手には大きな皿を持ち、それを矢口の目の前に置いた。
皿には、何種類かの料理がのっていた。
石川は、それを置くとまた自分の事を始めた。
矢口は皿を眺めながら、これをどうやって食べろと言うのかと考えた。

「おい…どうやって食べるんだよ」

案の定、石川は何の反応も示さなかった。
やっぱり、犬食いしろと言うのか。
矢口は、そのまま何も食べなかった。
せめてもの抵抗だった。

しかし、矢口の抵抗もそう長くは続かなかった。
飲まず食わずで何日か耐えたが、さすがに精神状態は追い詰められ、矢口も正常な判断が出来なくなってきていた。
矢口は死を感じるほどまでに追い詰められていた。
このままプライドを守って死ぬべきか。それとも、犬になってまで生きるべきか。

矢口は、後者を選んだ。
たとえ、どんなに惨めであっても生きる道を選んだ。
そして、石川の与える食事を口にした。石川はそんな矢口を見て大喜びし、矢口を抱きしめた。
矢口は、久しぶりに人の温もりを感じた。
…そう、矢口にとって人間は石川しか存在しなかった。
矢口は、石川に依存するしか生きる道が無かった。

矢口は、急速に石川への態度を変えていった。
石川の顔を見ると喜び、石川が手を触れるとその手を舌で舐めた。
見も心も、石川の犬になっていった。

石川は満足だった。これ以上なく。
自分が、矢口のすべてを支配している事に。
矢口が、自分無しでは生きられないと思った事に。