10:00
「ジリリリリリ・・・・・」
いつもの朝。いつもの目覚ましの音で中澤は目がさめた。
「う・・・頭痛い・・・昨日飲み過ぎたかな?」
中澤は目覚ましを止めると、時計に目をやった。
「うぁ!遅刻や遅刻!やっばー」
時計を放り投げて、ベッドを飛び出す。いつもの朝なのにいつもでないガランとした部屋。
中澤はようやく思い出した。
「あ・・・そうやった・・・もう、いいんやった。もう、終わったんや」


 一息「ふう」とため息をついて、閉めきったカーテンの隙間から外を覗く。
「ええ天気やなぁ・・・」
ガランとした室内を見回す。いくつものダンボール箱が積み重ねられていた。
いつもなら急いでスタジオへ向かわなければならないのに、今日は時間があまっていた。
いや、「今日から」時間は「余りすぎて」いた。
また一息「ふぅ」とため息をついた。

 「モーニング娘。が終わってしまうとはなぁ・・・」
そう言って中澤はベッドに横たわった。目に少し涙を浮かべながら。
「いや、いつかは終わるとは思っていたんやけど・・・いざその時がくると・・」
色んな思いが頭の中を巡った。
突然の解散。
中澤には、今、やる事が何もなかった。
ただ一つ、東京を去る準備以外は。

 中澤は東京から引っ越すのに、加護と一緒に加護の父親のトラックに便乗させてもらう事になっていた。
つまり、加護も帰郷するのだ。
「あいぼんに電話しなきゃ・・・」
電話を取ろうとするが、体が言う事をきかなかった。
まだ、未練があった。加護に電話してしまえば、帰郷が決定的になるような気がした。
(何かやり残しは無いん?このまま帰っていいん?)
中澤は自問自答を繰り返した。でも、頭に浮かぶ事は「娘。」をもっと続けたかった。
それだけだった。
 
 また、涙が出てきた。
いくら考えても、もう「娘。」は戻らない。
過去になってしまった自分を取り戻したかった。
しかし、それは叶わない。
「今さら帰っても何をすればいいんやろ・・・」
帰りたくなかった。

 「ピンポーン」
チャイムが鳴った。
(まさかあいぼん・・・もう向かえに来たんやろか?)
中澤は不安を覚えつつ、涙に濡れた顔をタオルで拭いて玄関に向かった。
ドアの覗き窓から外を見てみると、そこには保田が立っていた。
(圭ちゃんか・・・・ほっ)
中澤は鍵を開けドアを開いた。

 「やっ」
保田は元気そうだった。というか、中澤とはあまりに対照的に明るい顔だった。
「一週間ぶりだね」保田はそう言った。
「そうやね。なんや、すっごい久しぶりのような気がするわ」
中澤は疲れた声で言った。笑顔も無理やり作っていた。
「あ、入っていい?」
「あ、いいよ。ごめんごめん」
保田を招き入れて中澤はドアを閉めた。

 保田は部屋に一つしかない椅子に座った。
「あれ・・・裕ちゃん、やっぱり帰っちゃうの?」
「まあ・・・そうやなぁ・・・ここに居ても仕方無いし」
中澤は冷蔵庫のドアを開け、ジュースを取りだし保田に渡した。
「残念だったよね、娘。」
「そうやな。ほんま・・・ま、仕方無いねんけどな」
中澤はベッドに腰掛けた。
 
 「結局、芸能界に残ったのって・・・・」
「真希と矢口だけ・・・やな」
中澤はうつむいてそう言った。実のところ悔しかった。
後藤と矢口が残るのには異存は無かった。
でも、自分は残れなかった。それが口惜しかった。
「それがね・・・・」
保田は勿体ぶって話しはじめた。

 「真希の紹介で、なんとか私も残れそうなの」
保田はトンデモ無い事を口走った。
「ほ、ほんまか?」
「まだ本決まりじゃないんだけどね。なんとかなりそう」
「そっか・・・」
(コイツ、イヤミ言いにきたんか?)
中澤はショックだった。
後藤や矢口は納得がいった。でも・・・保田。
歌がウマイのは認めてはいたが、保田なみの実力は自分にもある、と信じていた。
中澤は肩を落として深くため息をついた。

 「あ・・・・じゃ、私帰るね」
保田はそう言って立ちあがった。
「あ、そか。何もおもてなしせんと、すまんね」
「そんな事ないよー。じゃね」
早く帰れもてなしするわけ無いやろ・・・そう心に思った。
保田は帰っていった。
中澤は卑屈になる自分がイヤだった。でも、自分をコントロール出来なかった。


 ベッドの上にある枕を壁に投げつけた。
そんな事しても何もならない事はわかっていた。
また、涙が溢れてきた。
「・・・・なんで私はダメなんや?」
ベッドに潜りこんだ。そして泣き声を聞かれないように顔を押し付けて泣いた。

 1時間も過ぎただろうか?
中澤は何もする気も起きずそのままベッドにうつぶせになっていた。
電話が突然鳴った。
(また保田か?出るのいやや)
少しばかりほうっておいたが、一向に電話は鳴り止まなかった。
しぶしぶ、電話をベッドに引きずり寄せて、受話器をとった。

 「あ、こんにちは。加護ですけど・・」
中澤はギクッとした。もう、帰る事が決定したか・・・。
「あ、あいぼん、もう少し待ってくれんかな?」
話しも聞かずに自分から話しを終わらせようとした。
「え?・・・・帰る事ですか?」
来た・・・中澤は思った。なにか言い訳をしたかったがなにも思いつかなかった。
「・・・・あの、帰る前にですね、安倍さんの所へ一緒に行きません?」
なんや、そういう事か・・・中澤は胸をなでおろした。
「ええよ。今日行く?どうせヒマやし・・・」
自分で「どうせ」なんて卑屈な言葉を使った事にびっくりした。

 「そうですね、じゃ、今日行きましょう」
「ほな、今からあいぼんのとこ行くわ。ええか?」
「はい。じゃ、待ってますね」
電話を切った。とりあえずは延命したかな?と思った。
帰るか残るかで決心がつかない自分にいらだっていた。
しかし、残るには家賃をおさめなければならない。
今、中澤にはそんな余裕は無かった。

 中澤は重い腰をあげ、鏡を見た。
「なんて顔してるんや・・・」
自分でも酷い顔だと思った。泣き崩れて、目は腫れて、そして死んだ目をしていた。
急いでメイクをはじめた。
いくらメイクをしても、悲しい顔は隠せなかった。
顔に後悔と不満が如実に表れていた。

 家を出て、電車を乗り継いで加護の住んでる所までやって来た。
「あいぼん、ウチの顔見て驚くかな・・・」
ドアをノックした。加護が出てきた。
「あ・・・中澤さん」
案の定驚いた顔をしていた。無理もないな、そう思った。
何も言い出せない加護に「さ、行こか」と言った。
加護は何も言わずに中澤と共に歩きだした。

 「・・・・安倍さん、元気ですかね?」
加護がやっと口を開いた。
「なっちなぁ・・・元気だといいんやけどな」
中澤と加護は安倍の入院する病院の前で立ち止まった。
「安倍さんが収録中に倒れた時は本当に驚きました・・・」
「そうやな・・なっちも色々あったからなぁ・・・限界だったんやろな」
「安倍さん、青い顔して・・思い出すと怖くなります」
「あの時はみんなどうしていいか分からなかったもんな」
(あれが原因で娘。が崩壊していったんや・・・)
中澤は思っていても口に出せなかった。
口に出したら安倍を攻める事になってしまいそうだった。

 「えっと・・・安倍さんの部屋は・・ここですね」
”元”マネージャーに教えてもらった部屋に着いた。
「なんか・・・会いづらいですね」
加護は苦笑いしながらそう言った。
中澤も会いづらいのは同じだった。
安倍が倒れてから会うのは初めてだった。
「娘。」の解散も安倍の耳に届いてるのは間違いない。
安倍のいない間に解散してしまった自分たちはどんな顔をして会えばいいのだろうか?

 ドアを開けた。病室には安倍が一人でベッドの上に座っていた。
安倍は外を見ていてこちらからは表情が見えなかった。
挨拶をしようと思ったが声が出なかった。加護も同じだった。
安倍がこっちを向いた。
顔は痩せて、頬はこけていた。

 「あ!裕ちゃんにあいぼん!ひさしぶりー」
思いのほか元気な声で安倍はしゃべった。
中澤は少しほっとした。安倍の表情は明るかった。
「ひさしぶりやな、なっち。調子はどうや?」
「ここんとこ凄くいいよ。少ししたら退院できるかも」
安倍は、にこっと笑顔で答えた。その顔には中澤のような曇りは一切無かった。

 「ま、そこに座ってよ」
安倍は椅子を勧めた。中澤と加護はそれぞれに椅子に腰掛けた。
「なっち、痩せたなー。昔のなっちに戻ったんちゃう?」
「痩せたかなー?可愛くなったかしら?」
安倍は無邪気に笑ってみせた。中澤にも笑みがこぼれた。

 「娘。解散したんだってねぇ」
安倍は躊躇せず言い放った。中澤の笑顔が凍った。
加護は何も言えずうろたえるばかりだった。
「どうしたの・・・?裕ちゃん?」
中澤はどう返答して良いのか分からなかった。
頭の中で言葉を巡らせても適切な言葉が思い浮かばなかった。

 「あれ?もしかしてなっちの事気にかけてくれてる?」
安倍は無邪気にそう言った。その言葉には嫌味は無かった。
「もう、終わった事じゃん。気にしても仕方無いよ」
安倍は変わらず笑顔のままだった。
中澤は顔をうつむけた。
「なっちが倒れた・・・って記憶無いんだけど、その後大変だったみたいねぇ」
安倍はそう言って窓の外に目をやった。中澤の目を見ないようにしているようにも見えた。

 中澤には、安倍が「娘。」が解散した事について説明を求めているように見えた。
中澤はゆっくりと、言葉を選びながら話しはじめた。
「なっちが倒れた後・・あのな、娘。の中で内紛が起きてん」
「いつもの事やと思ってたけどな、今度ばかりは根が深かったんや」
「現場の人達とお偉いさんとでもモメてな・・・その、なんや」
「なっちが倒れた事を公表するのか、とか、なっち無しで娘。はどうするんや、とか」

 安倍はまだぼんやりと外を眺めていた。
「その・・・メンバー達もいい加減疲れてたんや」
「そのうち・・・番組収録ボイコットするヤツらも現れて・・・」
「局の方からクレームが来たりしてな・・・」
「レコーディングとかも出来なくなってな」
「その・・・結局、潮時じゃないかって」

 安倍は外を眺めたまま、中澤の言葉を遮った。
「みんな・・・勝手だよね」
安倍の言葉は中澤にとって重くのしかかった。
それ以上、中澤は言葉を続けなかった。
静かな病室に沈黙が訪れた。

 「あの・・・」
加護が沈黙を破った。加護はいつになくおどおどした表情で安倍に話しかけた。
「安倍さんは退院したらどうするんですか?」
安倍はやっと顔を中澤達に向けて、穏やかな顔で話し始めた。
「なっちはね・・・まだ諦めてないよ」
 
 「諦めてないって?」
加護は身を乗り出して問いただした。
「だから、芸能界を諦めてない」
「退院したら復帰するよ」
そう答えた安倍の顔には自信と希望が満ち溢れていた。
そして、安倍は嬉しそうな顔をして、中澤の方を見た。

 安倍の影のない笑顔に見つめられて、中澤は少し困った顔をした。
「復帰って・・・どうやって?」
「モーニング娘。は解散したんや。ウチらはクビ。行くところが無いんや」
「もう、事務所も無いしマネージャーもいないんや」
中澤はそう答えた。自分に言い聞かせてるようでもあった。
安倍は笑顔のまま顔を上に上げ、天井を見つめた。

 「大丈夫だよ。なんとかなるって」
安倍は中澤の言う事など意にも介さず、そう答えた。
天井を見つめる安倍の目は輝いていた。
中澤は、悲しそうな目をして安倍を見つめた。
「なんとかって・・・」
そこまで言って中澤は言葉に詰まった。安倍の自信たっぷりの顔を見てると、自分の方が間違っているように思えた。

 安倍は突然顔を中澤達に向けると、身を乗り出すようにしてこう言った。
「ね、裕ちゃんとあいぼんも一緒にやろうよ」
中澤と加護はその言葉を聞いて顔を向け合った。
あまりにも突拍子も無い発言に困惑を隠せなかった。
「一緒に、ってなぁ・・・簡単に言うんやないよ」
中澤は安倍の方に顔を向け、そう答えた。

 安倍は相変わらず中澤の発言を気にせず、言葉を続けた。
「ほら、やっぱ三人の方が良くない?タンポポもプッチも最初そうだったし」
「裕ちゃんとあいぼんが一緒ならきっと楽しいだろうし」
「裕ちゃんはすっごく頼りになるし。あいぼんは才能あるし」
「私一人でやるよりずっとイイと思うよ」
「ね?どう?二人だってこのまま辞めたくないでしょ?」
中澤と加護はまた顔を向け合った。

 「このまま辞めたくないでしょ・・・」この言葉に中澤は動揺した。
安倍の言う通り、中澤はこのまま辞めるのはイヤだった。
しかし、中澤は自分に言い聞かせてきた。現実をよく見ろ、と。
復帰すると言っても事務所に所属して無い。もちろん仕事も無い。
ましてや「娘。」解散の時にどこからもオファーが無かった。つまりクビ。
「娘。」解散したために収入は無くなった。
事務所が借りてくれていたアパートも、そのうち返さなければならない。

 いや、アパートは家賃をおさめればそのまま居ていい事にはなっている。
しかし、収入の無い状態で、少ない貯蓄だけでどこまでもつのだろう。
家賃だけで無く光熱費や食費だってかかってくる。生活するだけで精一杯だ。
大体、”元”モーニング娘。の人間を他の事務所が受け入れてくれるだろうか?
仕事も無い状態でどこまで耐えられるのだろう。
中澤には年齢の事もあって後戻り出来ない崖っぷちに居た。

 「どうしたの?裕ちゃん」
安倍の声で中澤は我に帰った。
安倍は不思議そうな目で中澤を見つめていた。
「そんなん・・・復帰なんて・・・出来るんやろか?」
中澤は自分の出せなかった答えを安倍に投げかけた。
「出来るって!心配無いよ」
中澤は安倍の答えを疑問に思った。どこからそんな自信が出てくるのだろう。
そして、安倍の自信が羨ましかった。

 「けどな、住む所だってどうするんや?お金の事とか・・・・」
中澤は自分の考えていた現実を安倍に話してみた。
「一緒に住めばいいよ。それならお金だって少なくて済む」
「なっちの貯金も合わせればなんとかなるよ」
安倍はそう言って中澤に向かってピースサインをした。
中澤は安倍の指先に目をやった。小さな手。大きな自信。
中澤はふと自分の手に目をやった。小さな手。大きな絶望・・・。

 面会終了時間が迫っていた。
加護が中澤をひじをつつき、「時間・・・」と小さな声で言った。
中澤はそろそろ話しを切り上げて帰ろうと、椅子から立ちあがった。
「なっち、そろそろ時間やねん。ウチら帰るわ」
加護も中澤に合わせて立ちあがった。
「あ、もう時間かぁ・・・病院にいると時間長くって」
そう言って安倍は笑いながら、ベッドから立ちあがった。
病院備え付けの飾り気の無いスリッパを履き、安倍は中澤たちの方へ歩いてきた。

 「外までは見送り出来ないけど・・」
そう言って安倍は中澤に手を差し出した。
「なんや、握手かいな。なんか変な感じやな」
中澤と安倍は握手をした。続いて安倍は加護に手を差し出した。
加護は安倍の手を少し見つめてから、握手をした。
「じゃ・・・・」
中澤たちは安倍に背を向けドアの方に歩き出した。

 「まだ終わったわけじゃないよ!」
「負けたくないよ!」
安倍は突然大声で中澤たちに向かってそう言った。
中澤と加護はびっくりして安倍の方を振り向いた。
安倍はじっと、中澤たちを見詰めていた。手を強く握りながら。
中澤は安倍の気迫に押しつぶされそうだった。

 「そ、そうやな・・・」
中澤の精一杯の答えはそれだけだった。
中澤も負けたくなかった。しかし、どうすれば良いのだろう?
「じゃ・・またな」
中澤は安倍にそう言ってドアの方を向いて歩きだした。
中澤は安倍の方を振りかえらなかった。いや、振りかえれなかった。
安倍を見ていると、自分があまりにも情けなく見えた。

 病院を出て中澤と加護は駅に向かって歩きはじめた。
二人ともしばらく無言だった。
中澤の頭には色んな思いが浮かんでは消えていた。
そして
「まだ終わったわけじゃないよ!」
「負けたくないよ!」
安倍の言葉が頭の中をグルグルと駆け巡った。

 「安倍さん、なんか印象変わりましたね・・・」
加護が話しかけてきた。中澤は一瞬立ち止まり、加護の顔を見た。
そしてまた前を向いて歩きだした。
「そうやな・・・痩せてたし」
安倍は、そう、丁度「真夏の光線」の時の安倍の姿に逆戻りしていた。
ただ、髪は伸び放題でかなり痛んでいてボサボサだった。
肌も荒れていてツヤが無かった。
ただし、目は輝いていた。眩しい程に。
 
 「なんか、穏やかな感じになりましたね」
加護は続けてそう言った。中澤は前を見たまま、
「そうやな・・・」
とだけ答えた。
確かに、以前の安倍にあったトゲトゲしい雰囲気は微塵も感じられなかった。
柔らかい、穏やかな笑顔だけが印象に残った。
倒れた事がきっかけで安倍の中に何か変化があったのだろうか?
中澤は安倍の無邪気な笑顔を思い出していた。

 また無言のまま歩きつづけた二人は、駅に着いた。
二人はそれぞれ別々の方向に帰るため、別々の電車に乗る。
ならんでそれぞれの切符を買い、改札を通って上り線下り線の分かれるところまでやって来た。
中澤は立ち止まり、加護の方を向いて別れを告げた。
加護は小さく頷いて、自分の向かう方向を向いて歩きだした。
が、ニ、三歩歩いて立ち止まり、中澤の方に振りかえった。

 「中澤さん・・・安倍さんの言った事どう思います?」
加護は中澤の顔色を伺うような表情をしながらそう言った。
中澤は言葉に詰まった。加護を見つめたまま、動けなくなった。
「私は・・・やってみたいです」
そう言って加護は振り向き、走り出して行った。
加護は中澤から見えなくなるまで一度も振り向かずに走って行った。
中澤はその場に立ち尽くしていた。

 中澤は家に着いた。カギを開け、ドアを開け、部屋に入る。
バッグを床に放り投げ、自分はそのままベッドに横になった。
電気はつけていなく、部屋は真っ暗だった。
カーテンの隙間から覗く外の薄暗い明かりだけだった。
中澤はボンヤリと何も見えない天井を眺めていた。
「もう一度、か・・・・」

 中澤はしばし天井を眺めていたが、ふと起きあがった。
真っ暗ではあるが目が慣れてきて見えなくは無かった。暗いままの方が良かった。
冷蔵庫を開け、残り少ないビールを取りプルタブを開けた。
ビールに口をつけたままリモコンでテレビの電源を入れた。
そのまま椅子に座り、ボンヤリとテレビを見ていた。
「まだ終わったわけじゃないよ」
「負けたくないよ」
「私は・・・やってみたいです」
安倍と加護の言葉が頭の中でエコーしていた。

 
 中澤は突然、テレビに気を取られた。
「ごっちん・・・」
後藤がテレビに映っていた。後藤のソロ・デビューのためのプロモーションで歌番組に出ていた。
インタビューを受けている後藤。それをブラウン管ごしに眺める中澤。
ほんの少しの間で立場はあまりにも違っていた。
「モーニング娘。の解散、本当に残念でしたよね」
「はい、本当に・・・。もっとやっていたかったです」
「娘。は私にとって居心地のイイ学校みたいな・・」
「メンバーはみんな家族みたいで楽しかったです・・本当に残念です」

 「ウソつきっ!」
中澤は突然大声を出して、ビールの缶をテレビに投げつけた。力いっぱい。
涙が溢れてきた。手は震え、全身から汗が出てきた。
「ごっちんがボイコット先導したんやないか!」
声が枯れんばかりの大声で怒鳴った。
「あんたのおかげで・・・」
今度は逆に囁くほどの声でつぶやいた。

 中澤はその場にうずくまった。
「ごっちん・・なんでや?なんで裏切ったん?」
声を震わせながら中澤はテレビの中の後藤に話しかけた。
テレビの中では後藤のソロ曲が流れていた。後藤は満足そうに歌っていた。
中澤は両手で耳を塞いだ。後藤の声は聴きたくなかった。
「う・・・・うぅ・・・」
中澤は呻き声をあげて泣いた。

===========================================

 
薄暗いロビーには3人しか人がいなかった。
壁にもたれて立つ番組スタッフ。下を向いて動かない。
腕を組んだまま狭いロビーの端から端まで行ったり来りするマネージャー。
冷たくて固い長椅子に座り、じっとガラスで出来た自動ドアから外を眺める中澤。
3人には会話はいっさい無かった。ただ、沈黙。
マネージャーの足音だけがロビーに響いていた。

 中澤が見つめる外で、たった今4人を乗せてきた救急車が走り去ろうとしていた。
音も無く静かに発進する救急車。
救急車が行くと中澤はあたりを見回した。
外はもう暗く、ロビーの中は事務的な蛍光灯の明かりだけで薄暗い。
入り口の近くには小さな小窓があり、そこから誰もいない事務室らしき部屋が覗ける。
タイル張りの冷たい壁。色は淡いブルー。
ロビーから伸びる広めの廊下の先には観音開きの大きくて地味な扉。

 程なくして、一つの扉が開いた。扉の中からは薄いグリーンの術衣を着た男が現れた。
3人はいっせいに男に注目した。壁にもたれていたスタッフはスッっと立った。
マネージャーが足を止めた。中澤は・・・動かなかった。
マネージャーが最初に口を開いた。
「どうなんでしょうか・・・」
術衣の男は答えた。
「命に別状はありません」
3人とも緊張が解けて、ホッっと力を抜き、顔を見合わせた。

 「ただ・・・」
男は続けた。3人の緊張がまた一気に高まった。
「入院が必要かと思われます。絶対安静です」
マネージャーが顔を曇らせた。
「入院、ですか・・・原因はなんなんですか?」
「過労と極度の精神衰弱・・・それに、肺炎です」
男は表情一つ変えずにあっさりと言い放った。
「おそらく、風邪をひいたまま無理をしたんでしょう。それが悪化して」
マネージャーの顔がどんどん険しくなっていった。

 「どの位・・・入院が必要なんですか?」
マネージャーはだんだん声が大きくなっていった。
「経過にもよりますが、一ヶ月・・・それ以上」
「そ、そんなに?」
マネージャーの声はついにはロビー中にこだまする位の大きさになった。
中澤は・・・ただ、黙って聞いているしかなかった。

 中澤が楽屋の扉を開けると、部屋の中央にある大きなテーブルの周りにバラバラに人が座っていた。
それぞれは下を向いたまま押し黙っていた。いつもの騒がしい楽屋とは別世界だった。
一人が中澤に気が付いた。
「裕ちゃん・・・どうだった?」
そう言って矢口は椅子から立ちあがった。
その場にいる全員が中澤を注視した。
中澤は黙ったまま開いている椅子に腰掛けた。

 「なっちはな・・・一ヶ月以上の入院が必要なんやと」
中澤がそう言うと、ザワザワと全員が騒ぎ出した。
「何で?そんなに酷いの?」
矢口は椅子に腰掛けて、中澤に聞いてみた。
「過労と精神衰弱、それと肺炎やて」
中澤は鎮痛な面持ちで矢口に向かって話した。ザワザワはより一層大きくなった。
「肺炎・・・・マジで?」
矢口は信じられない、といった顔で中澤を見つめた。

 「どうするの・・・コンサートまであと一週間しかないよ?」
テーブルに肘をついて顔の前で手を組んでいる保田が言った。
「どうするって・・ウチらはどうしようも無いやろ」
中澤は保田を見ながら答えた。
「新しいアルバムのレコーディングだって・・まだ途中なのに」
後藤も口を開いた。手をひざの上に乗せていた。
「事務所が決めるやろ。どうするかは」
中澤にはそうしか答えられなかった。

 時間も遅いので今日のところはお開きになった。
中澤は全員が出たあと、最後に楽屋を後にした。
迎えの車のある駐車場へ出たら、出入り口に矢口が待っていた。
「裕ちゃん・・・なっち大丈夫かなぁ」
矢口は中澤の顔を見てそう言った。なにか、安心出来る言葉を期待しているようだった。
「大丈夫やろ。心配すな」
中澤は心にも無い事を言った。

 翌日、全員は事務所からこれからの事を聞かされた。
コンサートは延期。
アルバムの発売も延期。
テレビ番組は安倍不在を悟られないように、二組に分けて別々に収録する。
二組はメンバーを入れ替えつつ交代で番組に出演する。
後藤、保田を中心とするグループと、中澤、矢口中心のグループの二つに分かれる。

 「なんでこんなに小技使うんや?」
中澤は不思議だった。しかし、事務所の決定には逆らえなかった。
むしろ、どうどうと安倍の入院を公表してもいいんじゃないか、と思った。
それで「娘。」の人気が激減するとも思えなかった。
「しばらくの間、バラバラに行動するんか・・・」
中澤は何か不安だった。

 公表するまでも無かった。数日もすると、マスコミにすっぱ抜かれてしまった。
「安倍なつみ、重体で入院!再起不能か?」
それを見た中澤は驚きを隠せなかった。
「再起不能ってなんや!アホかー!」
記事を読むと、安倍入院の記事と、小さく「娘。」解散か?という書きこみを発見した。
「なんでやねん!どうしてそうなるんや?」

 安倍入院が知られてしまった事務所は、一度全員を呼び出した。
そこで聞かされたのは、健康上の理由、という事で安倍を脱退させるという事だった。
中澤は納得いかなかった。
「そんなんひどいじゃないですか!」
矢口が加担した。
「ちょっと強引すぎますよ」

 「なっちだけの娘。じゃないでしょ?このままだと全滅しちゃうよ?」
そう言ってきたのは後藤だった。
「なっち一人のために色々ありすぎだよ・・・・」
保田が加担してきた。
中澤は激怒した。二組に分かれている間に深い溝が出来てしまっていた。
「なんやねん!おまえら!仲間見捨ててもいい言うんか?」

 「今までだって脱退はあったじゃん。別に騒ぐほどの事でもないんじゃ?」
飯田が割って入ってきた。
中澤はますます激高した。
「なんやねん!なっち本人の意思じゃないやん!」
「なっちが居なくなれば清々するんじゃない?」
保田が言った。
中澤はキレた。

 中澤が安倍をかばうのには理由があった。
もちろん、オリジナルメンバー、という事もあったのだが、
中澤には安倍に対して負い目を感じていた。
安倍はその性格や言動からメンバーにたびたび嫌がられてきた。
安倍はメンバー内から孤立していた時もあった。
中澤はリーダーとして、メンバーを統率しなければならない立場にあった。
メンバー内の平穏のために、安倍を犠牲にしなければならない事が、たびたびあった。

 それでも安倍は中澤を信用して慕ってきた。
中澤は他のメンバーの前では冷たくあしらうしかなかった。
そうでもしないと、メンバーが中澤に反乱を起こしそうだった。
悲しげな安倍の顔・・・・。
中澤は自分を慕ってくれている安倍を裏切ってしまった。

 「やすだぁ!もう一度言うてみい!」
中澤は今にも殴りかからんばかりの勢いだった。
「裕ちゃん!やめなよ!ちょっとムキになりすぎだよ!」
矢口が叫んだ。
しかし、収まらなかった。収まらなかったのは中澤ではなかった。

 「裕ちゃんも事務所もなっちをかばいすぎだよ!」
保田もアツくなって暴走しはじめた。
「私がなっちにいじめられてた事知ってるでしょ?なっちの味方するなんて最低!」
後藤が叫んだ。
「裕ちゃんどうして?裕ちゃんだってなっちの事あんまり良く思ってなかったじゃない!」
飯田が叫んだ。

 (違うんや!それは違うんや!)
中澤は飯田の言葉に対してそう思った。しかし、口に出せなかった。
(ウチはなっちを裏切ったんや!裏切りはもういやや!)
中澤は黙ってしまった。矢口が中澤の手を掴んだ。
「裕ちゃん、やめよう・・・」

 睨み合ったまま沈黙が続いた。
この状況に耐えられなくなった辻が泣き出した。
「今日はお開きにしようや・・・」
中澤は力なくそう言った。
保田、後藤、飯田の視線が痛かった。まるで、以前の安倍を見るような目だった。
そして、三人は中澤に背を向け、ドアに向かって歩いた。
ドアを最後に出た後藤は、力いっぱいドアを閉めていった。
渾身の怒りがこもっていた。

 「裕ちゃん・・・やりすぎだよ」
部屋には矢口と中澤だけが残った。
中澤は後悔した。ここまでまとめて来たメンバーを自分の手で破壊してしまった。
「そうやな・・・」
中澤はどうしたらいいのか分からなくなってしまった。

 中澤は一晩考えて、結局後藤達の意見をのむ事にした。
自分が嫌いになった。最低だと思った。
(また・・・・裏切ってしまう・・・・)
後藤達にそれを伝えた。後藤達は了解した。
「事務所の決定だし・・・また、みんなでやり直そうよ」
後藤はそう言って笑った。中澤は笑えなかった。


 しかし、事はこれで収まらなかった。
生放送の番組に、後藤、保田、飯田、辻、そして吉澤の五人が現れなかった。
混乱する現場。平謝りするマネージャー。
連絡もとれず、家にもいない。
仕方無く、番組は中澤、矢口、加護、石川の四人だけで出演した。
しかし、四人の表情は今にも泣きそうだった。
全国に「娘。」の崩壊を放送してしまった。

 中澤は後日、スタジオに現れた後藤に問いただした。
ただ・・・怒っているというわけでは無かった。
ただただ、どうしてなのか聞きたかった。
後藤は言った。
「もう、娘。は解散した方がいいんじゃないの?」
中澤はそれでも冷静さを保った。そしてなぜかを聞いてみた。
「私は・・・他の事務所から誘いが来てるの」
「そっちに移籍しようと思ってて。でも、娘。が残ってると色々、ね」
中澤はそこまで聞いてさすがにキレた。

 「なんや?自分の都合しか考えてないやんか!」
中澤は怒鳴った。後藤は少しばかり動揺した。
「でもね、ののちゃんとか、ひとみちゃんも、もう嫌気がさしてるみたいだし」
後藤はそう言った。中澤は目の前が真っ暗になった。
「もう、ダメだよ。私達」
後藤の言葉が中澤に突き刺さった。

=====================================

 空が明るくなってきた。
新聞屋のバイクの音が静かな街に響いていた。
鳥のさえずりが聞こえる。
今日も晴れそうだ。
テレビは何やらさわやかな番組を映していた。
中澤は一人、ぼんやりと考え事をしていた。

 「負けたくない・・・・か」
安倍の言った言葉を中澤は繰り返し繰り返し口にした。
今の中澤はただの敗者だった。後藤は勝者だった。
「まだ終わったわけじゃないよ・・・か」
ここで終わらせれば敗者確定である。
「もう一度・・・・」
決着はまだついたわけじゃない。

 中澤はもう一度やってみようか、と思った。
しかし、自信が無かった。自分自身に。
安倍は可愛い子だ。中澤自身それは認めていた。
加護はセンスがいい。強いし。
なにより二人ともまだ若い。
自分はこの二人と並んでいいのだろうか?

 「二人を・・・売りこんでみようか」
中澤は自分がマネージャーとしてやっていく事を考えた。
ツテも無い貧相なマネージャーだけど、タレントの気持ちはよく分かってる。
それよりも何よりも、中澤は安倍の期待を裏切りたくなかった。
もう、ニ度と安倍を裏切る事はしたくなかった。
安倍の期待とは少し違うけど、安倍の夢を後押ししてあげる事は出来そうだ。
中澤は決心した。

 太陽が空高く上がってきた。今日もいい天気だ。
中澤は安倍のいる病院へ向かった。
自分の決心を安倍に話すために。
安倍は喜んでくれるだろうか?
少し不安だった。

 安倍は昨日と変わらず明るい笑顔で迎えてくれた。
「裕ちゃーん、ひさしぶりーなんつって」
中澤は少しほっとした。
中澤は昨日と同じ椅子に座った。安倍は今日はベッドではなく、加護の座っていた椅子に座った。
「あのね、裕ちゃん。退院できそうだよ」
安倍は満面の笑みを浮かべながらそう言った。
「お医者さんにね、無理に・・・あ、いやいや。頼んでね。早く出られそう」

 「そうなんか・・大丈夫なんか?」
中澤も笑顔で答えた。作り笑顔ではない笑顔で。
「大丈夫だよ!めっちゃ元気だし。病院は退屈だしー」
そう言って安倍はケラケラと笑った。
いい雰囲気だった。
中澤は昨日の話を切り出した。

 「昨日の話なんやけどな・・・ウチも、もう一度やってみよう思ってるねん」
安倍は中澤の顔を覗きこんだ。
「ほんと?」
「ほんまや。でもな・・・ウチはなっちとあいぼんのマネージャーやりたいねん」
「マネージャー?」
安倍はちょっと不満そうな顔をした。中澤は続けた。
「ウチがマネージャーなら二人もやりやすいやろ。どや?」

 「えー?でも、裕ちゃんがそういうなら・・」
安倍はちょっと不満そうだが、納得してくれた。
「でも、色々やる事あるねんで。まず、受け入れてくれる事務所捜しからやな」
「そうだねー。やぐっつぁんにも相談してみようよ」
「そやな」
中澤は後藤には何も相談したくなかった。矢口なら、協力してくれそうだ。
 安倍は立ちあがって背伸びをした。
「なっちが退院したら、裕ちゃんと一緒に住んでいい?」
「あぁ・・もちろんや」
中澤はちょっと不安だったが、安倍を受け入れる事にした。
「家賃は折半やぞ」
「わかってるって。あはははは」
安倍の表情には不安という文字はどこにも無かった。

  「じゃ、そろそろ行くわ」
中澤は立ちあがった。
「え?もう?」
安倍は寂しそうな顔をした。
「そうと決まったら色々準備せなアカンやろ。時は金なりや」
「あはは・・・大阪商人だね」

 「やぐっつぁんにはなっちが電話しておくよ」
「ああ、そうしてや・・・じゃ」
中澤はそう言って帰ろうと歩き出した。
「一人ぼっちは寂しいよ・・・」
安倍は帰ろうとする中澤にそう言った。中澤は振りかえった。
安倍は悲しそうな顔で中澤を見つめていた。
中澤は安倍に歩み寄って、安倍を抱きしめた。
「一人ぼっちじゃないで」

 翌日、中澤は「娘。」時代にもらった業界名簿にのっている芸能プロダクションに片っ端から電話してみた。

「捨てずにとっておいて良かったわぁ」
元モーニング娘。の安倍なつみ&加護亜依の二人による新ユニット。
マネージャーとして中澤裕子も一緒に受け入れてもらう。
ユニットの名前はまだ決まっていない。
いや、名前なんか何だっていい。とりあえずスタートラインにつくのが先だ。

 だが、プロダクション側の反応は芳しくないものだった。
「それはちょっと・・・」
「ウチでは無理ですねぇ」
中澤は挫けなかった。次から次へと電話してみる。
「今さら?」
「冗談でしょ?あはは」
だんだん辛くなってきた。

 「安倍さんはまだ入院しているんでしょ?それじゃ話にならないよ」
もっともだった。安倍がいつ退院するかも分からないのに先走りすぎている。
中澤は電話を止めた。


 「ピンポーン」
中澤が安倍との共同生活のために部屋の片付けをしていると、チャイムが鳴った。
「誰や?」
中澤は玄関に向かい、覗き窓から外を見た。
中澤はびっくりした。急いでカギを開け、ドアを開けた。
「えへへ・・・逃げてきた!」
そこには大きなバッグを抱きかかえて立つ安倍がいた。

 とにかく中澤は安倍を部屋に入れた。
「はぁ〜疲れた」
安倍はバッグを床に置くと、そのまま床に座り込んだ。
中澤は立ったまま、突然の事に焦っていた。
「なっち、もう退院したんか?」
安倍は中澤を見上げながらこう言った。
「ま、ね。ちょっとフライングだけど」
安倍はいたずらっぽく笑った。

 「なっちの荷物、こっちに持ってきてアパート引き払わないと」
安倍はバッグを自分の前に置いて、中を開けてごそごそとやっていた。
「持ってきてって・・・」
「ん?そんなに沢山は無いよ。娘。が解散した時に、事務所の人に頼んで実家に送ってもらったし」
呆然とする中澤を構いもせずに安倍は続けた。
「さっきアパート行ってきた。残ってるのは服ばっかりだよ」
中澤は開いた口が塞がらなかった。

 「とにかく、これからよろしく」
安倍は笑顔で中澤に言った。
中澤は呆れ顔をしながら頷いた。
「病院に居るときから段取りしてあったから。明日には全部お引越しできるよ」
中澤は安倍の言葉に驚きを隠せなかった。
(なんちゅうヤツや・・・・)
中澤はため息を一つついた。

 夕方になると、学校を終えた加護がそのままの足でやってきた。
「安倍さんに電話もらって・・・」
加護は制服のままだった。
「きゃー。あいぼん可愛いじゃん」
安倍は上機嫌だった。いや、異常なハイテンションだった。
「じゃ、新しい門出を祝ってかんぱーい!」
安倍は缶ジュースで乾杯をした。
加護も中澤も安倍には圧倒されっぱなしだった。
 夜も更け、ひさしぶりに沢山呑んだ中澤は良い気分だった。
加護は大分前に帰った。安倍はジュースだけで酔ってる中澤以上にゴキゲンだった。
ひさしぶりに色々話した。
「娘。」が増員増員を繰り返し、メンバーが増えれば増えるほど中澤と安倍は話す機会を失っていた。
中澤は酔いも手伝ってかかなり眠くなってきた。

 「もうそろそろ寝ようや」
中澤は安倍にそう言って、毛布を引っ張り出してきた。
「なっちはベッドで寝や」
中澤は毛布に包まると床にゴロンと寝転がった。
「裕ちゃん、いいよぉ。裕ちゃんのベッドじゃん」
安倍は中澤に気を使ってそう言った。
「ええんや。ウチ、床で寝るの好きやねん」
中澤は安倍に背を向けたままそう言った。
「裕ちゃん・・・・ありがとう」
安倍は中澤のベッドに入った。

 次の日、中澤は安倍とともに引越し作業におわれていた。
とは言っても安倍の部屋はほとんど片付いていて、服や生活用品だけが残っていた。
安倍は「娘。」時代をすごした部屋に別れを告げるのが少しツラそうだった。
安倍は最後に部屋を出るとき、ポツリと寂しげな顔でつぶやいた。
「さようなら、過去の私」
中澤は黙って見ていた。

 夕方頃、中澤の家で新しい生活の準備をしている時、突然電話が鳴った。
中澤は荷物に埋もれた電話を取りだし、受話器をとった。
「あ・・・裕ちゃん?」
声の主は矢口だった。矢口とも解散した後一度も会っていないかった。
「あのね、新しい事務所の件だけどね」
「ちっちゃい所だけど、ぜひ、って所が見つかったよ」
心なしか矢口の声は沈んでいるようだった。
「連絡先教えとくね」

 中澤は矢口の紹介してくれた事務所に連絡した。
早速、明日挨拶に行くことになった。
加護にも連絡し、明日新ユニットで新事務所に行くこととなった。
「以外に早く見つかったね」
安倍はとても満足そうだった。
中澤は復帰について思い悩んでいた自分がバカらしく思えた。

 10:00
「ジリリリリリ・・・・・」
いつもの朝。いつもの目覚ましの音で中澤は目がさめた。
「う・・・頭痛い・・・昨日飲み過ぎたかな?」
中澤は目覚ましを止めると、時計に目をやった。
「裕ちゃんのねぼすけっ」
安倍の甲高い声で中澤は目がさめてしまった。
「なんや、なっち。もう起きてたんか」

 中澤と安倍は加護と落ち合い、新事務所へ向かった。
新事務所はビルの一室にあった。
矢口が小さい事務所だけど、と言っていたが、本当に小さいところだった。
でも、そんな事は関係無かった。とにかく、再スタート出来るのだから。
三人は新事務所へ入っていった。

 新事務所の人達は暖かく迎え入れてくれた。
中澤はほっとした。中澤も専属マネージャーとして受け入れてもらえた。
そこでこれからの計画を話しあった。
まず、デビューシングルを録音する事。
デビュー曲のプロデュースは事務所の人にお任せした。
それからテレビやラジオに売りこみを始める。
まずは、デビューシングルだ。

 レコーディングスタジオにも挨拶をしてくるよう、事務所の人に言われた。
三人は事務所を出て、教えられたスタジオに向かった。
「なんだか、怖いぐらいだね」
電車の中で安倍は言った。中澤も同じ意見だった。
怖いぐらい上手くいっていた。
何もかも順調だった。

 電車を下りてスタジオに向かう途中、安倍は突然立ち止まった。
「なんや?どうした?」
中澤は安倍の顔を見て驚いた。血の気が失せて青かった。
「なっち!大丈夫か!」
「大丈夫・・・少しだけ休もう」
安倍は苦しそうにそう言った。
とりあえず近くの喫茶店に入って休む事にした。

 安倍は喫茶店のテーブルにしばらくうずくまっていた。
中澤と加護は注文したジュースも飲まず、ただ黙っていた。
安倍はしばらくして顔を上げた。
「もう、大丈夫・・・さ、行こう」
安倍の顔はまだ青かったが、少しばかり回復したように見えた。
「ほんまに大丈夫なんか?」
中澤は心配だった。まだ退院して日が浅い。無理は禁物だ。
「大丈夫だって」
安倍は力なく笑った。

 三人は喫茶店を出てまたスタジオに向かって歩きだした。
中澤は安倍の様子をじっと見ながら歩いていた。
加護は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
安倍は、苦しそうな顔をしながらただ前だけを見て歩きつづけた。

 スタジオに着き、関係者の人達に挨拶をした。
安倍の顔色はまだ優れなかったが、苦しそうな表情は消えていた。
中澤は終始安倍の体調を心配し、声をかけた。
安倍は、大丈夫だから、とだけ答えた。
中澤は不安だった。

 スタジオを立ち去ろうと廊下を歩いていたら思わぬ人物と偶然出くわした。
「ごっちん・・・・」
中澤の表情が一気に硬くなった。保田も居た。
「あ・・・・おひさしぶり」
後藤と保田は気まずそうに挨拶した。
「うちら、再デビューする事になったんや」
中澤は後藤を見つめながら言った。

 「そうなんだ・・・がんばってね」
後藤はまったく興味なさそうに言った。
「ごっちん、おひさしぶり。お互いがんばろうね」
安倍が間に割って入ってきた。そして、握手を求めて手を差し出した。
「じゃ・・・・」
後藤と保田は安倍を無視して歩き去った。
安倍は、手を差し出したまま下を向いていた。

 スタジオを出て帰り道、安倍は中澤に話しかけた。
「裕ちゃん、私、ちょっと用事があるの・・・先に帰ってて」
中澤は心配だったが了解した。
「じゃ・・・ごめんね」
安倍はそう言って人ごみの中に消えて行った。
中澤と加護は安倍が見えなくなるまで安倍を見ていた。

 家に帰って来た中澤は一人、ビールを飲んでいた。
安倍や加護と分かれてからもう大分時間がたっていた。
中澤は安倍が心配だった。
テレビを見ているものの、頭はテレビの事なんか意識してなかった。
これからが少し不安になった。

 随分待っても安倍は帰ってこなかった。
(まさか、何かあったんじゃ・・・・)
中澤は心配でいてもたってもいられなくなった。
その時、電話が鳴った。
中澤は心臓が飛び出そうな位びっくりした。
嫌な予感・・・・。
中澤は恐る恐る受話器を取った。

 「あ・・裕ちゃん起きてた?」
電話の主は安倍だった。中澤は力が抜けた。
「なっち・・・早よ帰ってきてや」
中澤は心配で仕方なかった。
「うん。でも、もう少しかかりそうだから」
「先に寝てていいよ。カギ持ってるし」
安倍の声はイマイチ元気が無さそうだったが、しっかりしていた。
中澤は少し安心して、電話を切った。

 「プルルルルル」
電話の呼び出し音にびっくりして、中澤は目がさめた。
真っ暗な部屋のなか、手探りで電話を探して受話器をとった。
「はい・・・もしもし?」
「あ・・・裕ちゃん?」
電話の主は矢口だった。声は心なしか震えていた。
「矢口かぁ。こんな夜中になんの用やねん」
中澤は少し不機嫌そうに答えた。

 「裕ちゃん!今すぐ病院に来て・・・・」
矢口は泣き出しそうな声でそう言った。
「病院?なんや一体・・・」
「なっちが・・・・階段から落ちて・・・」
中澤は驚いた。矢口の言ってる事が理解出来なかった。
「階段?落ちた?」
「とにかく、すぐ来て!」
矢口は困惑しているようだった。
中澤は着の身着のまま家を飛び出した。
 中澤が病院に到着し、中に入ると矢口がいた。
矢口は今にも泣きそうな表情をしながら、ロビーの長椅子に座っていた。
中澤の姿を見ると矢口は立ちあがり、中澤に歩み寄った。
「裕ちゃん・・・なっちが・・」
矢口は冷静さを失っているようだった。
「何があったんや?」
中澤は矢口に問い掛けた。

 「警察から私に電話があって・・・なっちが階段から落ちたって」
「ケガはどうなんや?」
中澤は矢口に聞いてみた。
「分からない・・・・全然分からないよ」
中澤は、そうだろうな、と思った。
矢口が電話を受けたときには安倍はもう病院だっただろう。

 「階段って・・・どこの階段や?」
「駅の階段だって・・・・」
駅。阿部は帰り道だったのだろう。
しかし・・・なぜ?
確かに昼間、安倍は調子が良く無さそうだった。
自分から落ちたのだろうか?
足を滑らせて?

 「裕ちゃん・・・どうしたらいいんだろう」
矢口の声に考え込んでいた中澤は我に帰った。
「どうもこうも・・・」
「あいぼんとか、ご両親にも連絡しないと・・・」
「そうやった・・・」
中澤は現実に引き戻された。
ツライ、ツライ連絡をしなければ・・・。
 
 ガチャ、という音がして奥から術衣の男が出てきた。
いつか見た風景だった。
しかし、違ったのは男の表情が険しいのと、術衣が血まみれだった事だ。
「お知り合いの方ですか?」
男はゆっくりと、静かにしゃべった。
「ご家族の方は・・・」
中澤は、彼女の家族は北海道にいる、と答えた。
「そうですか・・・ご家族に連絡してください」
中澤はその言葉を聞いて絶望の予感がした。

 「ど・・・どうなんですか?」
矢口か男に問い掛けた。男はため息を一つついた。
「頭を酷く打っていて・・・脳に大きな傷がついています」
矢口はそれを聞いて一歩後ろに下がった。
「命に別状は無いのですが・・・意識が戻るかどうか」
矢口は両手で口を押さえた。
「それって・・・植物人間?」
中澤が男に問い掛けた。
「そういう事です」

 中澤はその場に倒れこんだ。
「裕ちゃん!」
矢口が中澤の体を体全体で倒れないように支えた。
中澤は目の前が真っ暗だった。頭の中は真っ白になった。
「裕ちゃん!裕ちゃん大丈夫!?」
矢口の声が病院の狭いロビーに鳴り響いた。

 矢口に支えられて、中澤は長椅子に座った。
中澤は両手で顔を押さえた。止めど無く涙が出てきた。
「裕ちゃん・・・・」
矢口は中澤を支えたまま、下を向いていた。
中澤にはもう、何も頭に浮かばなかった。
ただただ、泣きつづけた。
泣くしか出来なかった。

 泣くだけ泣いて、もう涙も枯れてしまった。
中澤は冷静さをやっと取り戻していた。
「矢口・・・すまんな・・・もう大丈夫や」
中澤はそう言って矢口の体を起こした。
矢口は下を向いたまま押し黙っていた。
「矢口、もう帰りや。明日も仕事やろ?」
「後はウチが居るから・・・」
中澤は矢口を気遣って帰るよう促した。

 矢口はタクシーに乗って帰っていった。
一人で居るロビーは寂しくて、恐ろしく寒かった。
「ご両親に電話せな・・・」
中澤は重い腰をあげてロビーにある公衆電話に向かった。
受話器を上げた。手が震えた。受話器を持っていられないほどに。
受話器を置いた。震えは全身にわたった。
「寒い・・・・怖い・・・」
中澤は両手で体を押さえ、その場にうずくまった。

 電話は病院関係者の人が代わりにしてくれた。
中澤は電話の間、両手で耳を押さえていた。聞くのが怖かった。
「病室に・・・・どうぞ」
看護婦が中澤に話しかけた。中澤は安倍の姿を見るのが怖かった。
しかし、中澤は現実を直視しなければならなかった。
看護婦につれられて、病室に入った。
 安倍の居る病室は眩しかった。暗いロビーから入ると目の前が白くなるほど明るかった。
中澤が入ると、看護婦は静かにドアを閉めて出ていった。
病室の真ん中にはベッドに寝ている安倍が・・・。
中澤は恐る恐る近づいていった。
安倍は・・・何もなかったかのように眠っていた。
本当に、静かに。

 顔にはガーゼが貼られていた。顔に傷を負ったのだろう。
それに大きなアザ。
中澤は顔を近づけてみた。
安倍の顔には大量の血を拭いた後があった。
中澤はそれを見て後ずさりした。
そしてそのまま、床に座り込んでしまった。

 中澤はそのまま呆然と安倍を見つめていた。
中澤は今にも安倍が起き上がってくるような気がした。
そして、またあの甲高い声で騒がしくしゃべりまくるような気がした。
そう願っていた。
しかし、安倍はいつまでも静かなままだった。
病室は、機械の不気味な音以外は何も音が無かった。

 「すみません・・・」
看護婦の声で中澤は我に帰った。
「警察の方が、お見えになってます」
中澤は立ちあがった。そして、ドアに向かって歩いた。
看護婦がドアを押さえていてくれた。
中澤は廊下に出た。

 「このたびは・・・」
スーツ姿の中年男と、警察の制服を着た若い男がいた。
中澤は二人に一礼した。
中澤と二人はロビーに移動し、長椅子に座った。
「さて・・・」
中年男は中澤を見ながら話しはじめた。

 「実はですね、安倍さんが転落したあと、奇妙な電話がありましてね」
「女性の声なんですが・・・安倍さんが突き落とされたのを見た、というんです」
「名前も名乗らずすぐ切られてしまいまして」
「なにか心当たりございませんか」
中澤は驚いた。突き落とされた?
そして匿名の電話。
中澤は何が何だか分からなかった。
「すみません・・・なんも分かりませんわ」

 「そうですか・・・何かありましたらここへ電話してください」
中年男はそう言って名刺を手渡した。そして立ちあがった。
「じゃ・・・」
中年男と制服警官は中澤に一礼をして、立ち去った。
中澤は二人を見送った後、病室に向かった。
病室に入ると、椅子をベッドの横に置いて、座った。
「なっち・・・・何があったんや」

 いつのまにか朝になっていた。
中澤は安倍の横に座り、ずっと考えていた。
突き落とされた?誰が電話を?
だが、考えても結論は出なかった。

 ドアが突然開いた。そこには息を切らして泣き顔の加護がいた。
加護は中澤に抱きついた。そして、大声を上げて泣いた。
中澤は黙ってそっと抱きしめた。
加護は泣きつづけた。

 あまりに取り乱す加護を見て、中澤は加護を家に帰した方が良いと思った。
「あいぼん・・家に帰り」
中澤がそう言うと加護は首を大きく横に振った。
「あいぼん・・・ウチかてツライんや」
中澤がそう言うと、加護は少し間をあけて、小さく頷いた。
中澤は加護を外に連れて行き、タクシーに乗せて帰らせた。
「あいぼんにはツラすぎる現実やろな・・・」
中澤は病室に戻った。

 中澤はまた、安倍の横に座り、安倍の顔を見つめていた。
「突き落とすなんて・・なんの恨みがあるんや?」
「恨みがあったにしてもヒドすぎるやろ」
「あの時、なっちを一人にしなければ・・・」
「ウチが付いていれば・・・」
中澤は後悔の思いしかなかった。
何も出来なかった自分が悔しかった。

 病室の外の廊下は昼間という事もあって騒がしかった。
しかし、病室は静かだった。外の音がかすかに聞こえる程度だった。
中澤は眠る事も忘れ、じっと安倍を見つめていた。

 突然、外の音が大きくなった。ドアが開き、そこから音が入ってきた。
中澤はドアの方を見て驚いた。意外な来客だった。
「ごっちん・・・・・」
後藤は何も言わずドアを閉めて、ドアの入り口近くから動かなかった。
中澤に近づくのを避けているように見えた。
後藤の顔は青ざめていた。目にはうっすらと涙を浮かべていた。
二人とも無言だった。

 「裕ちゃん・・・・ごめんね」
後藤が口を開いた。中澤は黙って後藤を見ていた。
「ごめんね」
後藤は謝ってばかりだった。中澤は何が言いたいのか分からなかった。
「何があったんや」
中澤はやっと口を開いた。
「私・・・怖かった」
「怖くて・・・逃げた」

 中澤は黙ったまま、後藤の話をじっと聞いていた。
「目の前で倒れているなっちを見て・・・恐ろしくなった」
「すぐに助けてあげれば良かった・・・・」
どうやら、後藤は「その時」現場に居たようだった。中澤はまだ黙っていた。
「ごめんね」
「すぐに警察に言えば良かった・・・・」
「やぐっつぁんが・・・」
そこまで聞いて中澤は立ちあがった。
「矢口?矢口が突き落としたんか?」
後藤は小さく頷いた。

 中澤は全身の力が抜けてよろよろと椅子に座り込んだ。
何も言葉が出なかった。
両手で頭を抱え込んだ。
後藤はまだそこに立っていた。

 「何でなんや・・・」
中澤が口を開いた。
「警察に電話したのはごっちんか?」
後藤は頷いた。
「見たんやな。突き落とす所を」
後藤は頷いた。
「間違いなく矢口だったんか?」
後藤は頷いた。
沈黙。

 また、外の音が急に聞こえてきた。ドアが開いた。
後藤と中澤はドアを見た。中澤は立ちあがった。
「矢口!」
中澤は入ってきた矢口に飛びかかった。
後藤は困惑してよろよろと中澤をよけた。
中澤は矢口の胸倉を掴んだ。
「ナンなの裕ちゃん!」
矢口は叫んだ。
「何て事したんや!」
中澤は怒鳴った。

 矢口は中澤の手を振り払おうと必死に抵抗した。
「なぜなっちを突き落とした!」
中澤は力いっぱい矢口を掴んでいた。どうしようもない怒りが込められていた。
矢口は黙って中澤の手を掴み、引き離そうとしていた。
「自分、何したんか分かってるんか!」
中澤は怒りで手が震えた。

 「裕ちゃんなんかに私の気持ちが分かってたまるか!」
矢口が突然叫んだ。中澤はひるんで手の力を弱めた。
矢口は中澤の手を振り払った。
「なっちが私に何をしてきたと思ってるの!」
「私が娘。に入りたてのころ、どんなに酷いいじめにあったと思ってるの!」
「裕ちゃんは見て見ぬフリしてたじゃん!」
「私がどんなに苦しかったか分かるの!?」

 矢口はその場に座り込んでしまった。
「そんな・・仲良かったやんか」
中澤は矢口を見下ろして言った。
「仲良かったなんて嘘!私はなっちのイジメから逃れるためになっちに取り入ってただけ!」
「なっちの味方のフリをしてた!自分を守るために!」
矢口は大粒の涙をぼろぼろと流し始めた。
「突き落とす事はないやろ!」
中澤は矢口に言った。
「こんなに酷いケガになると思ってなかった・・・」

 矢口は顔を涙でグシャグシャにしながら話した。
「私はただ、押しただけ。転んで足でもケガすればイイと思ってた」
「でも、なっちは・・・受け身も取らずにそのまま落ちた!」
「なんの抵抗もせず、頭からまっさかさまに落ちて行った!」
中澤は思い出した。安倍が調子を崩していた事を。
安倍は、すでに意識が朦朧としてたのかもしれない。
だから、押しただけで簡単に落ちてしまった・・・。

 「こんな事になると思ってなかった・・・」
「怖くなった・・恐ろしかった・・・・」
矢口は下を向いたままだった。
中澤は何も言えなかった。あまりの事の酷さに、呆然とするしかなかった。
後藤はただ、泣きつづけていた。

 「私は、なっちの影にずっと怯えて暮らしてきた」
「私にとってなっちは恐怖そのものだった」
矢口はそう言うと黙ってしまった。
病室はあまりにも静かだった。
安倍は何も知らず、眠り続けていた。
病室の床に、矢口の涙が一つ、また一つ落ちて行った。

=====================================
 10:00
「ジリリリリリ・・・・・」
いつもの朝。いつもの目覚ましの音で中澤は目がさめた。
中澤は目覚ましを止めると、時計に目をやった。
部屋を見渡すと、もう、ほとんど全ての物が片付けられていた。
安倍の甲高い声も聞こえない。
中澤はようやく思い出した。
「あ・・・そうやった・・・もう、いいんやった。もう、終わったんや」

 「いや!終わったんやない!」
中澤は頭を横に振った。
「これから再スタートなんや!」
中澤は自分に言い聞かせるように大声で言った。

 安倍の一件で再デビューは見送りとなった。
中澤も、もう復帰するつもりは無かった。
主人公のいない物語を続けるつもりは無かった。
しかし、中澤は後悔も絶望もしていなかった。
ただ、前だけを見ていた。

 安倍は両親の希望で北海道の家に近い病院に移される事になった。
中澤と加護は、病院までお別れを言いに来ていた。
病院の前には、安倍を乗せていく車が止まっていた。
ドアが開き、安倍がストレッチャーに乗せられて出てきた。
二人は安倍に歩み寄った。

 「安倍さん・・・今度遊びに行きます。それまでに元気になってくださいね。約束ですよ」
加護は安倍の手を両手で握ってそう言った。
「なっち・・・・ごめんな」
中澤はそれしか言えなかった。
安倍は何も答えてくれなかった。
しかし、少し笑ったように見えた。
安倍を乗せたストレッチャーは二人を離れ、車に乗せられた。
安倍の両親もそれに続いて乗りこんだ。
中澤と加護は両親に深く一礼した。
ドアが閉められ、車は走り出した。
二人は、いつまでも車を見守っていた。

 「ふぅ、やっと片付いたわ」
中澤は何も無い自分の部屋を見てそう言った。
「ごっちん、わざわざ手伝いに来てもらって・・・すまんかったな」
中澤はタオルで汗を拭きながら後藤に話しかけた。
「いや・・・」
後藤は暗い顔をしていた。悲しそうだった。

 中澤のアパートの前には加護の父親のトラックが止まっていた。
加護と加護の父親はすでに乗車し、出発の時を待っていた。
中澤と後藤はトラックに向かって歩きはじめた。
「裕ちゃん・・・・ごめんね」
後藤が下を向いたまま言った。
「ええんや。もう終わった事や」
中澤は笑顔で答え、後藤の頭を手で軽く叩いた。
「裕ちゃん・・・帰ったらどうするの?」
「そうやなぁ・・・もんじゃ焼き屋でも始めるか」
「裕ちゃんが料理するの?なんだか危なそうだね」
後藤は目にいっぱいの涙を溜めながら笑った。精一杯。

 「じゃ・・・元気でな」
中澤は後藤に別れを告げてトラックに乗りこんだ。
トラックはゆっくりと走り始めた。
後藤はトラックをじっと見ていた。
中澤は窓を開けて顔を出し、遠ざかる後藤に叫んだ。
「ごっちん!みんなの分までがんばるんやぞ!」

 トラックは首都高に入った。いつもながら混雑していた。
中澤は窓の外の景色を眺めていた。もう、見ることは無いであろう東京の景色。
「まだ終わったわけじゃないよ!」
「負けたくないよ!」
安倍の声が頭のなかでグルグル回った。
「そう、まだ終わったわけじゃないんや・・・」
そう、中澤はつぶやいた。

 首都高を抜け、東名高速を西へ進む。
中澤は忘れていた事を思い出した。
「あ!不動産屋さんにカギ返すの忘れてたぁ!戻ってや〜!」
                                        終。

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